この文は偽である―命題に含まれる指差し語の問題―
(2016年4月2日 Y氏、L氏の指摘を受けて大幅に加筆修正)
自己言及のパラドックスを引き起こす文の例として「この文は偽である」というものがよく挙げられる。「この文は偽である」が偽であると仮定すれば、「この文は真である」ことになり、仮定に反する。「この文は偽である」が真であると仮定すれば、「この文は偽である」ことになり、仮定に反する。したがってこの文はどうやっても矛盾を引き起こしてしまう、と言うのだ。よろしい。この(自己言及のパラドックスに関する)議論自体にまったく異論はない。しかしどうだろう、自己言及文の例として「この文は偽である」は適当だろうか。
まず私の疑問、素朴な命題概念においては「この」の原理的な制限によって「この文は偽である」という文が「X: "X is false"」形式の自己言及文となり得ないのではないか、を検討してみよう。ゆえに本記事は「X: "X is false"」形式の自己言及文(つまりウソツキ文)が矛盾を引き起こすことの回避を目的としているわけではない。
問題は「この」という語の使用法にある。通常、我々が「この」と言うときには、指差し、矢印、目線、文脈などを用いてなんらかの対象を指し示している。紙に書かれた文を指差しながら「この文は」と言う、紙に書かれた「この文は」からペンで矢印を別の文へとのばす、紙に書かれた文をちらりと見ながら「この文は」と言う、「『(文A)』、この文は」と続ける、等々。これらの動作をすべてあつめ、できた集合の元を単に「指差し動作」と呼ぶことにしよう*1。「この+指差し動作」ではじめて「この」はなんらかの対象を指し示すことができるのである。その通常の使用法に指差し動作が含まれるような語を以後「指差し語」と呼ぶ。
さて、「この文は偽である」に含まれる指差し語「この」に、実際に対象を指差してもらおう。指差し動作は簡単に矢印で表す。
「この文は偽である」という文が指差し動作の対象になっている。これでいいじゃないか、なんの問題もないだろう、と思ったそこのあなた。この図をよく見てほしい。指されている対象はあくまでも「『この文』は偽である」であって「『(この+指差し動作)文』は偽である」ではない。指差し動作(ここでは矢印)がどうしてもはみ出てしまうのだ。つまり指差し動作の対象に含まれる「この文」は、指差し動作を含んだ指差し語ではなく、単なる「この文」という名詞なのだ。「この文」とはなんだろうか。まるで宙を眺めながら「これを見よ」と語りかけているようである。指差し動作を含まない「この文」はただ虚空を指しているのである。
困った。これでは自己言及ができていないあまりか、言及対象が消えてしまっている。そこで、「この文」に「対応する指差し動作」と「この文は偽である」の両方を指差させてみよう。
これで「この文」の指差す対象は意味のある文になった。解決解決。なんだ、ちゃんと自己言及のパラドックスになっている。いや、果たしてそうだろうか。
「この文」が指差す対象はなお「自己」ではない。実際、図では先ほどはみ出ていた矢印は指差し対象に取り込めたものの、新たな矢印がはみ出てしまっている。まあそんなことはどうでもいいのだ。矢印を増やしたことで、さらに深刻な問題が発生している。そもそも、指差し対象が常にひとつでなければならないことは直観的に明らかである。もしひとつの指差し語に指差し対象が複数対応していれば、我々はその対象ごとにそれぞれ真偽を考えなくてはならない。そのような文は命題として機能しない。よって、ふたつの矢印のうちどちらかは消去されねばならない。一方の矢印を消去すれば、結局は最初に提示した図とまったく同じ構造となってしまう。指差し語は自己言及文になることも、矛盾をつくりだすこともできないのだろうか。
①L氏との議論から見えてきた解決法
TwitterのフォロワーであるL氏との議論から、私の言う「この」、つまり "This" の使用が論理学的使用と一致していないのではないかという仮説が出てきた。
上記の指差し語的使用(日常的使用)を "Our-This" と呼び、論理学的使用を "S1-This" と呼ぶことにしよう*2。S1-This には "This sentence is false" を X: "X is false" に変換する作用があり、多くの論理学者は自然にその作用を受け入れ、"This" の使用のひとつに含まれるものと考えている。すると、私が神経質にこれらふたつの "This" を分けて(S1-This を除外して)いることに問題があり、指差し語は完全にスルーしてもよい議論だったということになる。
しかし、現に私は自然に Our-This を採用していた。はじめから誰かが S1-This を提示してくれていれば、私や(存在するかわからないが)私と同じような疑問を持った者と論理学者たちの間の理解に齟齬が生じることもなかったのである。もし "This sentence is false" の多くの発話者が自然に This を論理学的に使用するのだとすれば、各々がふたつの使用の違いを自覚し、論理学的使用の合意が為されるべきではないか、と私は思う。
②Y氏との議論から見えてきた解決法
ひとつ目の解決法は私の This の使いかたを修正するというものであったが、ふたつ目の解決法は私の(もしかすると他の多くの数学者の)命題概念を修正するというものである*3。
"This sentence is false" のようなものも含め、発話可能な文を単に「文」と呼ぶ。文の中には見かけ上は命題と呼びうるもの(前-命題)が存在するが、それは命題ではない。命題は一般に文と文脈からつくられる、と考えてみよう。どれほど頑固な指差し語的使用主義者でも "This sentence is false" の言わんとしていることは十分に理解できる。なぜだろうか。それは我々が、文に付随する文脈を認識しているからである。指差し語が何を指差そうとしているかは「ウソツキ文の話をしている」「直近で他に真偽を問えるような文は出現していない」等々の文脈によって理解される。このように、文に必要なだけの文脈が与えられる*4と「指差し情報付き文」が生成される。指差し情報付き文の中に「真偽を問うことのできるもの」が存在するが、これを命題と呼ぶことにする。
指差し語問題は前-命題と命題の混同、つまり指差し情報付き文が発話可能な(オブジェクトレベルの)指差し動作を含む文であると考えたことにより発生したが、実は本当に "This sentence is false" が言わんとしていることはメタレベルの発話によって伝達されていたのだ、ということである。つまり、指差し情報無しの文は命題ではなく、命題は発話できない。
このように命題概念を修正すれば、指差し語問題はもはや命題に関する問題ではなくなり、無視してもよくなる。
ここらへんの哲学的議論はまったく把握していないので、誰か似たようなことを問題にしていたら教えてほしい。