ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

顔で笑って心で泣いとる

ㅤ以前はただただ感傷に浸るために、あるいはカッコいい音楽を聴くために流していたBUMP OF CHICKENを、今は実際に涙を流すために聴いている。飛行機の中で、雲よりも高い場所から、オレンジ色の強い光を視界の端に置いて、学生の頃は平気だったものをこらえきれずに溢れさせてしまう。

 

ㅤ変化が始まったのは大学院に入る少し前くらいだった。つい最近まで「働き始めてから」と思っていたけれど、記憶をよく辿ってみればそれよりも前みたいだ。僕がおかしくなっていったのはそのくらいで、働き始めてからはむしろ元(それがいったいいつのことだったかなんてもうわからないけれども)の自分に戻ってきている。それまで僕は高校や大学の数少ない友達くらいとしか会っていなかった。これくらいの時期から色々な人と会うようになった。困っている人、苦しんでいる人、助けを求めている人、楽しい人、気の合う人、とにかくたくさんの人と会うようになった。その多くが僕とはまったく違う人生を歩んでいた。例えば、彼らと知り合うまで「家庭環境が悪い」ということがどういう状態を表すのか想像することすらできなかった。僕のいた家庭は平和そのものだった。僕は宇宙と数式に興味を持つふつうの虚弱な子供で、両親は読みたい本を好きなだけ買い与えてくれた。友達が少なくても本を読むことができれば幸せだった。小学校・中学校の暴力的な同級生たちは自分とは違う生き物なのだと考えていた。だから小中学校で見た彼らと同じ境遇の人と仲良く喋ることができるなんて考えてもみなかった。

ㅤこの時点でまだ診断は降りていなかったが、おそらく僕はすでにうつ病になっていた。だいたい高校時代あたりからだろう。家庭環境の悪い人々は多くが僕と似たような苦しみを抱えていた。安心感を覚えてしまった。苦しんでいるなら助けたいなんて思ってしまった。僕はそうした。そうしようとした。彼らは僕とはまったく異質の人生を歩んできているので、信頼しても裏切られたり、酷いことをされたりすることもあった。それも仕方のないことだ、悪気があってやっているんじゃない、それだけ大変な目に遭ってきたのだから少しくらいの粗相は許されるべきだ、僕は自分にそう言い聞かせた。頭が少しずつおかしくなっていっているのがわかった。自分の置かれている状況について、深く考えることができなくなっていった。損や得などといったことがどういうことかわからくなっていった。僕は人助けをして、少なくともしているつもりで、いつも笑っていた。

 

ㅤ顔で笑って心で泣いとる。昔、僕のことを好きだと言っていた女がよく呟いていた。僕はここ何年かずっと、いつも顔で笑って心でも笑っていた。心で泣く方法がわからなかった。顔が泣いていても心は笑っていた。涙が止まらないのに、頭の中は「悲しい」という感情に深く入り込むことができていなかった。悲しみを感じるほど深く考える前に、頭が思考を外側へと跳ね返していた。感情の深層まで辿り着くことができなかった。

ㅤつい最近になって、気づくと心が泣いている、ということが起こるようになってきた。そういうときはBUMP OF CHICKENを聴くと顔のほうもちゃんと泣いてくれる。顔で泣いて心で泣いとる。顔で泣くと気持ちが少し落ち着く。社会人になって、今までの人間関係から少し離れたおかげだろう。僕は心で泣くことができるようになった。ちゃんと僕にも「悲しい」という気持ちがあるんだ。少し嬉しかった。少し嬉しかったけれど、少し苦しくもある。心で笑っていれば何もつらくない。本当はつらいのかもしれない。少なくともそのことから目をそらすことはできる。だから、心で泣けることがいいことなのかはいまいちわからない。ただ、今は、泣いているのだから仕方ない。できるのは、イヤフォンを耳に詰めて今夜聴く曲たちを選ぶことだけだ。そうしているうちに朝が来る。朝が来れば、もっと良くなっているはずだ。

藤原基央の呪い

 この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2018の24日目の記事です。

  今年も昨年と同じくサークルクラッシュ同好会を批判する記事でも書こうかと思っていたのですが、書いているうちに面倒になったのでやめます。言いたいことの半分はもう昨年書いたので、また改めて他の機会にでも。

 代わりに今日は、もう5年も(特にここ半年はひどく)僕を苦しめている「呪い」について書いてみます。その「呪い」とは、「藤原基央の呪い」です。

 

 僕とよく会う人は知っていると思いますが、僕は髪がかなり長いです。一時的に短くしても、そのあと必ず長期間伸ばします。これは就職活動のあいだも例外ではありませんでした。修士1回生の終わり頃に髪を短くしましたが、自分のその姿に耐えることができず、初めての面接には翌年度の夏に髪が伸びてから行きました*1。どちらにしろ僕のようなナードは就活ヘアにする必要のない技術職に就くしかないので、それで困ることはありませんでしたが。

 髪を伸ばし始めたのは高校生の頃からです。中学時代も周囲より比較的前髪が長かったのですが、今のように伸ばしっぱなしにしてはいませんでした。高校の卒業アルバムでは目がほとんど隠れています。後ろ髪は肩まで達しています。髪を伸ばし始めたのは、目を隠したかったから、そして、バンドに参加したからです。最初は決して「BUMP OF CHICKENのファンだったから」という理由ではありませんでした。前者は藤原基央と同じ動機ですね。彼は父親に目つきの悪さを指摘されたことが前髪を伸ばすきっかけとなりましたが、僕は幼少期にメバチコで片目だけ奥二重になった(もともと一重です)のが嫌で隠すようになりました。どういう状態かわからない人は「的場浩司」で画像検索してください。最近はアイテープを片目にだけ貼ることで以前ほどは気にしないようにできています。後者は「参加」といっても高校の文化祭*2と卒業ライブでサポートに入ったくらいでした。軽音部に所属していなかったのは“隠キャ”だったからです。

 BUMPを知ったのは幼馴染から教えてもらったのがきっかけでした。彼は小学校と中学校が同じで、高校進学後も交流が続いた唯一の友人です。20代のはじめ頃に一緒にバンドを組んだり、僕が修士1回生の頃は同じ本屋で働いていたりもしました。彼はあるとき、USBメモリにBUMPのアルバムと一部シングルを入れて渡してくれました。だから僕のウォークマンには「藤原基央の呪い」がかかる前からBUMPの曲の多くが記録されていました。それにもかかわらず、僕は今ほど偏執的にBUMPを聴いてはいませんでした。当時の僕の中では楽曲がいくつかのフラッシュ作品に使用されているというイメージが主でした。

 それは大学1年目の冬、すなわちおよそ5年前ですが、サークルの先輩の家で鍋を囲んでいたときのことです。髪の長い僕を見て、BUMPファンのある先輩*3が「お前、藤くんっぽいな」と言ってきたのです。もちろん、僕は藤原基央のような“整った”顔ではありませんし、身長も彼よりずっと低く、似ても似つかないのですが、髪が長いという一点だけは類似しています。そのときはあまり気にしませんでしたが、時間が経つにつれてその言葉が頭の中で何度も何度も反復するようになりました。どうしても気になるのです。鏡で自分の髪型を確認するたびに「藤原基央」という文字列が視界にチラつくようになりました。意図して真似しているわけではないのに。藤原基央のあまり着なさそうな服を着てみたりして遠ざけようとしてみたこともありましたが、意識すればするほど僕の中で藤原基央の存在は大きくなっていきました。あまりにも気になりすぎて、僕はBUMPの曲を以前より頻繁に聴くようになりました。ちゃんと歌詞を“聞く”ようになりました。よく知られている通り、藤原基央の書く詞は僕たちのようなナードの心に強く刺さるように構成されています。多くのナードたちと同じように、僕は藤原基央の書く詞に心を奪われていました。だんだんと「藤原基央みたいになりたい」という気持ちまで抱くようになりました。元々似ていた髪型も、無意識のうちにより似せようとしてしまうことがたまに起きるようになりました。「呪い」はゆっくりと、しかし確実に強くなっていきました。少なくとも、学部生のあいだはそこまで強い「呪い」ではなかったと記憶しています。

 

 半年ほど前の京都はひどい大雨が何度も降りました。僕は何年も使って所々へこんでしまった古いウォークマンを鞄のポケットに入れていたのですが、彼はとうとう雨で動かなくなってしまいました。当時使っていたパソコン(今この記事を書くのに使っているMacBook Proの前に使っていたWindowsマシンです)は大学入学時に購入したものですが、ウォークマンにBUMPを入れたのは高校時代です。なのでこのパソコンにはBUMP楽曲のデータが(大学入学以降に発売されたものと自分で買ったシングル数枚しか)ありませんでした。それだけのことで最近は数ヶ月に一回しか会っていない幼馴染を呼び出すのは申し訳なかったので、数週間はBUMPを聴かずに過ごしました。

 いつもあったものが急になくなると、当たり前にあったときよりも強く意識してしまうものです。数週間で耐えられなくなり、新しいウォークマンを父に頼んで買ってもらい、この機会に以前は持っていなかったシングルも含めて全部買おうと一斉に注文しました。ライブDVDも買いました。長く聴いていなかった反動でしょう。僕は以前よりも強い「呪い」に悩まされることになりました。その日着ていく服を決めるときには無意識のうちに「藤原基央」で画像検索してしまうようになりました。服を買いに行くと「藤原基央」の検索結果を見ながら選ぶようになりました。首を長くするために猫背矯正ベルトを装着し、O脚を治すために歩き方を見直しました。就寝時に着圧タイツなんてものも履いています。僕はエラが張っていて顔が大きいので、こんなデカい顔では藤原基央のコスプレなんてできないぞ、とマウスピースを買って睡眠時に強く歯を噛みしめる癖を治そうとしてみたりもしました。「歯ぎしりの音が聞こえてこなくなった」と家族からは好評です。今度は親知らずを抜いてみようと思います。少しくらいはエラが引っ込むかもしれない。どうやら前歯が(おそらく親知らずのせいで)少しずつ動いているようなので、ちゃんと抜く理由もあります。僕は痩せているほうなのですが、顎の下の皮が余っています。僕が鼻炎でついつい口呼吸をしてしまうせいで弛んでいるという可能性があるので、年始に鼻のレーザー治療を受けることにしました。鼻息ができなくて起きてしまうということが頻繁にあるので、ついでにそれも解決することができます。どんどん健康になってしまいますね。

 全部べつにしなくともよいことなのですが、「藤原基央の呪い」が僕のコスプレのクオリティを上げるためにそうさせるのです。整形はリスクがあって怖いですしお金もかかるのでやる気はありません(もともとのコンプレックスだった目についてはいつか左右対称にしてもらうかもしれません)が、他にできることはどんどんやっていこうと思います。いつまでどこまでなんてわかりませんが、少なくとも「呪い」が解けるまではできるだけ。そもそもこの「呪い」は解けるのでしょうか。もしもできるのならば、誰か助けてください。

 

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これはだいぶ誤魔化した自撮りです。

 

 

 明日はラスト、ホリィ・セン(@holysen)です。

*1:結局2社だけ受けて、2番目に受けた会社へ就職することにしました。博士号は何らかの形で取得しようと思っています。一旦工学か文学で修士課程をやり直すか、理学で博士課程に行くかまだ迷っています。

*2:@walk_to_work 君と一緒にギターを弾いていました。

*3:K坂ひえきという男です。

コンピュータは哲学者になれるのか?

 その本を買ったのがたしか昨年の4月だったはずなので、コトが起きたのはおそらくそれより後だったはずだ。修士課程1年目が始まってすぐ、僕は大学近くの吉岡書店で『コンピュータは数学者になれるのか?』を買って読んでいた。『コンピュータは数学者になれるのか?』では人工数学者が"原理的"に*1可能かという哲学的問題には明確には触れていないように記憶している*2が、読み進めていくうちに僕はそちらの問題のほうが気になってきた。僕の興味はべつに「数学者」に限定する必要もないものだった。「コンピュータは哲学者になれるのか?」という問題でもまったく構わないだろう。もっと正確に言えば、これは「ロボットは人間になれるのか?(それらの間に違いはあるのか?)」という古典的な問題への誰もが一度は抱きうる興味のたんなる言い換えである。

 先に言っておくが、この記事は哲学の問題について考えるための記事ではない。昨年あった極めて不愉快な事案について、僕の中でひとまずの決着がついた(案の定僕が間違っていないことを当時より強く確信することができるようになった)ということを報告するだけのものだ。もうかなり前のことだし具体的な日時も覚えていないので当該ツイートを引っ張ってくるのが難しく、細部に記憶違いもあるかもしれないが、だいたいはこの通りのことが起きていたと思う。違ったら当該箇所が読めるURLか何かを投げて教えてほしい。

 僕はツイッターでは基本的に思考がダダ漏れなので、先述の問題について考えていたことはすべてツイートしていた。具体的には、「哲学の問題を入力すると哲学者と同じように何らかの"まっとうな"思考の結果を出力するようなマシンは"原理的"に可能か?」ということについて考えていた。問いをもっと明確にしよう。0と1の列を入力すると0と1の列を印刷するようなマシンがあるとする。哲学の問題を0と1の列に変換し*3、これを入力すれば出力が何か"まっとうな"思考の結果となるような言明の変換になっている、という状態は"原理的"に可能だろうか? 例えば、「言葉は意味を持てるのか」という問いを意味するバイナリ列を与えればクワス算の話でも始めてくれるようなマシンはあるのだろうか。このようなマシンが存在すれば、そいつは哲学史を何も学ばずになぜか不思議なことに突然哲学的思考が可能になったやつだ、ということになる。ここでいちばん大事なのは、こういうマシンを人間が作れるか、ということではなく、端的にそこにこのようなマシンが存在するというような状況は可能か、が問われているということだ*4。工学的な実現可能性なんてものはこの議論に一切入ってこない。

 確かそこまで考えたところで当時相互フォローだった京大文学研究科の五十嵐涼介氏(@igarashi_50)が反応し、哲学史がいかに大切かを説明してくれた。説明してくれるのは大変ありがたいが、彼は僕が何を問うているのかあまりうまく理解できていないようだった。彼の説明は「実際に人間が哲学を勉強するときになぜ哲学史を学ぶことが必要なのか」に終始していたように思う。僕は人間の(それも統計的な)話なんて一切興味がなく、哲学機械が"原理的"に可能かどうかという話しかしていなかった(はずだ)。この問いの意図を理解するのはそんなに難しいことではない。これまで何千人も何万人も、それどころではない大勢が同型の問題を考えてきただろう。小さな子供が考えていたっておかしくない。おそらくその時は少し言葉足らずだったのだと思うが、その旨をいくら伝えようとしても彼にはまったく通じなかった。ウィトゲンシュタインはあまり哲学史に明るくなかったのではないか、というミスリーディングな例を挙げてしまったのも悪かったのだろう。しかし、全体としてはそれほど不十分な説明ではなかったと思うし、後述のように京大の教員に口頭で数十秒説明しただけで意図はほとんど完全に伝わっていた。まともな専門家ならここまで解きほぐせば何を言っているかがわかるだろう。いらいらしつつエアリプでやり取りをしていると、フォロー外の彼の取り巻きが「親切に教えてやっているのになぜわからないんだ」だとか「こういう哲学史を学ぶことが不要だと思っている素人に困らされている」なんて*5言及してきた。五十嵐氏もそいつに同調してそのような態度を取り始めたので、さすがに僕も*6だんだんと攻撃的な姿勢になっていった。じきに外野がざわざわと騒ぎ出し、何人かが言及するようになった。同志社大学のダメ太郎スマイル(@ootake1107)なんてやつの発言もかなり失礼だったように記憶している。彼は何かあるたびに問題をまったく把握しようともせず失礼なことを言い捨てていくのだ。まあ彼のことはどうでもいい。あくまでも僕視点では、なんでこんなにも哲学史にこだわるんだろう、という言及が多かった。日本でラッセルを研究していたが「あんなのは哲学じゃない」と言われ肩身が狭かった人、海外で哲学を学んで「哲学史を重視しすぎる教育が有能な若手を潰していた」と怒っている人、等々もいて*7、僕に肯定的であること自体は嬉しかったし当時も感謝していたが、今になって考えると彼らもやっぱりあまりうまく問題を把握していなかったのかな、と思う。僕は人間の、それも統計的な話なんてしているわけではなく、特定のマシンが"原理的"に可能か、ということにしか興味がない。実際にこの世界で生活している人間の話なんてしていない。自分が哲学史を学ぶことが不要なんて決して思ってはいないし、理学研究科の学生にしてはよく勉強しているほうだと思う。もちろん、こんなものでは足りないが。それはそうと、関係のない話を延々と続けられ、そういう話ではないといくら説明しても(相手が専門家であるにもかかわらず)理解されないのは愉快なものではない。

 五十嵐氏ら*8の特に良くなかったところは、「哲学史は絶対に必要である」ということがあたかも哲学界でコンセンサスが取れていて、それを理解しない素人に日々悩まされているという態度を取ったことである。当時仲良くしていた他大の博士課程の友人とはこのことをきっかけに疎遠になってしまった。彼は「あなたの言う通りだが、そこそこ立場のある五十嵐氏といざこざを起こして哲学界での自分の立場を悪くしたくない」と言って僕から離れていった*9。僕は修士課程在籍中にいくつか分析哲学系の講義や演習を受け、日本で分析哲学を研究する者なら誰でも知っているような教員に最初の問いと同型の問いを投げてみたが、すぐに「もちろんそれは統計的な話だ」との答えが返ってきた。少しも迷わず、即答だ。なんだ、コンセンサスなんて全然取れていないじゃないか*10。当時僕を糾弾していた人々は、この教員も同じように罵倒するのだろうか。どうせどちらも京大に所属しているのだし、この教員と直接会ってもらって(当然もう会ってはいるだろうけど)どうするか見てみようか。権威に怯まず立場を崩さなければ、それはそれで尊敬に値するだろう。まあいい。とりあえず、大切なことの確認ができてずいぶんと気持ちが軽くなった。

*1:ここでは"原理的"という言葉に異なる3つのニュアンスを込めている。ひとつ目は「統計的には無視できるほど低い確率であっても物理法則と矛盾しないしかたでありうる」、ふたつ目は「物理法則と矛盾するかもしれないが想像すること(絵に描くこと)は可能である」、みっつ目は「想像すること(絵に描くこと)はできないがそうであることは可能である」、というものだ。それぞれは「何度サイコロを振っても1から6の目が順番に出る」、「(この記憶を保持した状態で)気がつくとこの視界がロボットの目から開けていて、そのロボットの身体だけを動かすことができる」、「ある時点でこの世界があるロボットから開ける(すなわちこの記憶はロボットへの開闢点の移動に伴って消え、移動したという事実もわからない)」という事態に対応する。

*2:もしかしたらどこかで触れているかもしれないが、覚えていない。

*3:これがそもそもうまくいくのか、ということはかなり大きな問題だ。しかし、人間だってまったく同じように書かれた問題でも同じように理解しているという保証はない。

*4:これは「他人がじつはみんなロボットなんじゃないか」という懐疑の部分問題なのだから、他人がじつはロボットであったということが可能であるならば当然このようなマシンも可能だろう。あなたの指導教官がじつはロボットだったという場合を考えてみよ。

*5:もちろん原文ママではないが、もっと失礼で乱暴な発言が繰り返されたように思う。

*6:しかしずいぶん我慢して相手を尊重した態度を取っていた。今はもっと気が短いのであれほど長くは耐えられなかっただろう。

*7:この肩書きもだいぶうろ覚えなので間違っていたら申し訳ない。

*8:五十嵐氏本人はそこまで強調していなかったような気もするが、まあ静止せず同調していたので同罪だろう。

*9:多くの人が知っている通り、彼との間にはもっと大きな問題が生じてしまったのだが。

*10:ついでに関係者と近そうな界隈での話をすると、ツイッターでは他にも石畑隆氏(@ishihata_purple)氏が「これは統計的な話だ」ということに同意していた。五十嵐氏らのような主張をしている人を当時いきり立っていた数名を除いて見たことがないのだが、彼らは普段から多くの同業者に怒りを向けながら研究を続けているのだろうか。

すぐ恋愛の話をする社会が嫌い

 正確には、人は誰でも恋愛をするものだ、そのことについて他人と話すものだ、という同調圧力が嫌いだ。タイトルは僕がサークルクラッシュ同好会の会員として関西テレビ「桃色つるべ」に出演した際、僕の名前の上に書かれていた一文だ。

 

 開口一番、とまではいかなくとも、日常会話の最中に他人から「恋人はいるの?」と聞かれたことのある人は多いだろう。この世界は性愛を中心に動いている。少なくとも僕にはそう見える。空気は性愛で満たされていて、窒息してしまいそうだ。これは僕用の空気じゃない。言葉は性愛で構成され、それを受け取る目も耳も、それを発するこの口も、どこかぎこちなく動く。これは僕用の言葉じゃない。

 僕はここで性的指向の話をしているわけじゃない。エイセクシュアルだとか、デミセクシュアルだとか、エイロマンティックだとか、そういう性的マイノリティじゃなくとも性愛中心主義は息苦しいものだ。実際、僕はこういうふうにカテゴライズされることに強い違和感を覚える。わざわざ「するほう」と「しないほう」で分けて「しないほう」を名乗るなんて、まるで「する」か「しない」かが人間にとってものすごく重要なことみたいじゃないか。

 街を歩けば広告が、テレビを点ければドラマが、バラエティが、人は恋愛をするものだと語りかけてくる。どこかに性的指向の指す向きがあることを前提としたクィア運動を見て、また「ここまで来たって僕用の言葉はないんだ」と肩を落とす。確かに、歴史的には性的マイノリティは差別されてきたし、いまも差別されている。だから自分たちの性愛の権利を守るために声をあげ続けなければ”殺されて”しまうだろう。彼らにとってそれは死活問題で、僕はただ性愛の空気からの逃げ場がないことを我慢していさえすれば”普通に”生きていくことができる。僕のような人間に配慮する余力は彼らにはない。これは仕方のないことなんだ。我慢すれば済む。たかが数十年だ、どうってことはない。

 

 自分の居場所がないなら作ればいいじゃないか、と言われてしまうかもしれない。”禁煙席”を作るというわけだ。でもどうやったって、煙が漏れ出てくるのは避けられないし、生きるためには”喫煙席”を通らなきゃいけない。誰だって少しは目が痛くなるようなものを視界に入れながら生きている。誰だって誰かに副流煙を吸わせながら生きている。表現の自由は守られなきゃいけない。それでもやっぱり僕にとっては、この世界にはあまりにも刺激物が多すぎる。僕にはこの話をわかってくれる友達が何人かいる。彼らといる間、僕は”禁煙席”に座っていると言えるかもしれない。束の間の休息に過ぎないのだけれど。

 他人が恋愛の話をするのを聞くのが許せない、というわけではない。僕も場合によっては自発的にそういうテーマを選択して会話をすることがある。ただし、絶対にそれを他人に押し付けたりはしない。あくまでも、人間って恋愛するもんでしょ、というような決めつけ(本質主義)がダメなんだ。しない人もいる、はい覚えた覚えた、じゃ意味がない。する/しないの二項対立が生じる時点で恋愛というものが他と比べて特権化されてしまう。デミセクシュアル、のようにセクシュアリティの一種としてこれを記述することへの抵抗感もここに起因している。では性について一切の分類をするなというのか? と言われると、これも違うと答えるしかない。そうやって性的指向に名前をつけることで生きやすくなる人もいるのだから、これを否定するわけにはいかない。ただ、(あるともないとも言いたくない)「これ」に名前をつけること自体が抑圧になってしまうような人間もいる、ということだけ頭の片隅にでも置いといてくれれば、僕も少しは生きやすくなるかもしれない。

 

 読者の中には、じゃあなんでサークルクラッシュ同好会なんて入ってるんだ? と思った方もいるだろう。サークルクラッシュ同好会はLINEグループに入ったら入会となる。僕は大学の後輩からふざけてこのグループに入れられたので、完全に自分の意思で入会したというわけではない。それでもここに残り続けて(色々あって一度抜けていた時期もあったが)いるのは、特に性愛についてよく考えている集団の中の方がむしろ性愛中心主義の生活への侵食に気づいている人を見つけやすいからだ。ここには恋愛などの人間関係で悩んでいる人々が多く集まっている。その中には、自分がコミットしていない(あるいは必要もないのにコミットさせられていると薄々感づいている)性愛中心主義の社会からの押し付けが悩みの原因であるような人もいる。そうでなくとも、それが誰かの悩みの原因になりうるという事実にリアリティを感じることが、性愛をテーマとすることによって可能となるような人もいる。僕はこの可能性に賭けたい。さっき言った「わかってくれる友達」もサークルクラッシュ同好会の会員だ。僕はここに来てよかったと思う。

 

 

(この記事はサークルクラッシュ同好会会誌vol.7に寄稿したものである。)

疲労困憊

まだ知能の低い人々が騒いでいるのがたまに視界に入ってきて不快なので愚痴でも書いておこう。多くの人が知っている通り、僕(と数名)はメンヘラ.jpというサイトに対して「差別的表現の含まれるページがある」(そして運営者の個人的発言にもその差別的意識が表れている)という批判を投げていた。サイト運営者が批判者に対してデマをばら撒いて中傷するなどの悪質な行為で対応したため、問題はかなり大きくなった。しばらくしてその表現は改善されたのだが、日本語の文章を理解することのできない大勢の馬鹿が僕たちの批判に対して「ではメンヘラ.jpに障害者が好き勝手に書いた危険な記事を載せろというのか」などとトンチンカンなことを言って粘着してきたのだ。メンヘラ.jpは事業でやっているのだからそんな危険なことはできないだとか、僕の話とはまったく関連性のない主張を投げつけてきて、彼らは気持ちよくなってどこかへ行った。実際に(比較的)差別的でない表現に差し替えられたのだから何が「できない」のかまったくわからない(現にできているではないか!)のだが、どうにも彼らにとってはあまりにも難しすぎる話だったらしい。そのことは https://nugum.net/introduction でも解説されている。そもそも差別的であるという批判が不当であるなどと言う愚か者もいたが、そうであればメンヘラ.jpが差別的であると(鍵アカウントで、だが)名指しで批判する精神科医が存在することはどのようにして説明されるのだろう。僕はその医師の講義を受けていたのだが。

とにかく、僕はもう文章を読むことのできない人々を相手することに疲れ切ってしまった。おそらくもうこの話題には触れないし、触れたくもない。この記事を最後に、誰が何を言おうと無視をするだろう。

最近は籠原スナヲという馬鹿の中でもとりわけ知能の低い人間がウダウダと騒いで上記のような主張をまた繰り返していた。何をどう読んだらそういう物語を読み取ることができるのかわからない。しかし、知能の低い人々はいつも僕の予想をはるかに超えた物語を創作する。いくら当事者がそれは間違いだと指摘しても決して間違いを認めず、現実よりも自分のなかにあるストーリーを重んじるのだ。まったく関わり合いになりたくないものである。しかし、僕は人が馬鹿であることや知能が低いことによって迫害されることは道徳的でないと考えているし、馬鹿であることや知能が低いことによる蔑視などあってはならないと考えているので、なんとも苦しいことに、いくら有害であっても彼らを心から非難する気にはなれないのだ。(もしこの文章から蔑視の意図を読み取ったとすれば、もう一度、もっと注意深く読むか、目についた話題にかんして何か言いたくなったとしても黙るという賢明な方向へと舵を切るようつねに心掛けることを勧める。)いやはや、どうしたものか。

9月9日文学フリマ大阪にて大倫理文学第3巻『インターネットの神様』頒布

 9月9日に開催される文学フリマ大阪にて、インターネット大倫理文学第3巻『インターネットの神様』を頒布します。青本舎ブースは H-19 です。

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 第1巻・第2巻に引き続き、四流色夜空(@yorui_yozora)さん、かみしの(@KamisinOkkk)さんに小説を寄稿していただきました。庄司理子(@shoji_riko)さん、杞憂ちゃん(@jocojocochijoco)も第2巻からの参加です。

 第3巻ではイラストに梓義朗(@bIFXaQ)さん、林美月(@H_M_izuki)さん、小説に異島工房(@Itou_Cocoon)さん、社会的信用がない(@shelliemay26)さんを新たに迎え、付属CDには奴隷商人(@r_devil_c)さんと僕の音源を収録しています。今回もよろしくお願い致します。第1巻と第2巻も僅かながらまだ在庫があります。

 

 ブースを机ひとつぶん確保しているので、何冊か委託も受け付けることができます。

 

第6回文学フリマ大阪

日程:9月9日(日) 11:00~17:00

会場:京阪・大阪メトロ天満橋駅すぐ OMMビル2F B・Cホール

庄司理子個展「何も無い中に在る」を見た

 アトリエ「空白」にて開催されていた庄司理子個展「何も無い中に在る」を見てきた。見てきたと言っても2か月も前のことである。新年度はじめで色々と立て込んでいて感想を書くのが遅れてしまった。申し訳ない。

 前回の個展「生まれゆく欠片たち」の感想はこちら。

sutaro.hatenablog.jp

 「何も無い中に在る」は庄司理子大学卒業後初の個展だ。2015年から2018年までの作品が展示されており、大学在学中に彼女の絵がどう変わっていったかも見ることができる。女の子を真ん中に大きく配置した絵では、2015年頃のものだと今より“キャラクター”っぽさを感じる。背景の色はあたたかめで、少女の色とはまだ強く分化されていない。完成された一枚の絵、という印象がある。対して2017, 2018年の少女の絵はより写実的で、背景もシンプルに塗られている。少女と背景の境界はよりハッキリと意識させられ、まさに“何も無い”空間の中に質量を持って存在しているように見える。

 

 個展のステートメントにはこう書かれている。

世界は人の思う美しい形で待ってはいない

どこまでもばらばらの一人ぼっち

でもそこに境界線はなく、全てどろりとしたひとつの海

一瞬現れただけの錯覚のようなもの

でもそれは確かにそこにある

どの角度から見ても同じ色のものでありたい

でもそんなことは不可能だ

見つけたものは本当か

自分の中には他者がいる

沢山の矛盾を抱きしめて

何も無い中に在る

 前回「生まれゆく欠片たち」で彼女は「誰かがいいと言ったら価値が化ける事がある」「生まれたくないのに生まれさせられて 「何者」かから自己をあたえられて」と“自分”や“価値”などといった作者あるいは作品に内在する(と自然に考えてしまうような)ものの不安定さについて考えていた(と思う)。そういった不安定さを取り除くことなんて不可能だ。僕たちはどう見られるかによってどう在るかを否応なしに変えられてしまう。誰にも見られない自分なんていない。自分を形づくる誰かに、僕たちは常に見られているのだから。けれども僕たちは、作品は、とにかく在り続けていく。在り続けていくしかない。