ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

コンピュータは哲学者になれるのか?

 その本を買ったのがたしか昨年の4月だったはずなので、コトが起きたのはおそらくそれより後だったはずだ。修士課程1年目が始まってすぐ、僕は大学近くの吉岡書店で『コンピュータは数学者になれるのか?』を買って読んでいた。『コンピュータは数学者になれるのか?』では人工数学者が"原理的"に*1可能かという哲学的問題には明確には触れていないように記憶している*2が、読み進めていくうちに僕はそちらの問題のほうが気になってきた。僕の興味はべつに「数学者」に限定する必要もないものだった。「コンピュータは哲学者になれるのか?」という問題でもまったく構わないだろう。もっと正確に言えば、これは「ロボットは人間になれるのか?(それらの間に違いはあるのか?)」という古典的な問題への誰もが一度は抱きうる興味のたんなる言い換えである。

 先に言っておくが、この記事は哲学の問題について考えるための記事ではない。昨年あった極めて不愉快な事案について、僕の中でひとまずの決着がついた(案の定僕が間違っていないことを当時より強く確信することができるようになった)ということを報告するだけのものだ。もうかなり前のことだし具体的な日時も覚えていないので当該ツイートを引っ張ってくるのが難しく、細部に記憶違いもあるかもしれないが、だいたいはこの通りのことが起きていたと思う。違ったら当該箇所が読めるURLか何かを投げて教えてほしい。

 僕はツイッターでは基本的に思考がダダ漏れなので、先述の問題について考えていたことはすべてツイートしていた。具体的には、「哲学の問題を入力すると哲学者と同じように何らかの"まっとうな"思考の結果を出力するようなマシンは"原理的"に可能か?」ということについて考えていた。問いをもっと明確にしよう。0と1の列を入力すると0と1の列を印刷するようなマシンがあるとする。哲学の問題を0と1の列に変換し*3、これを入力すれば出力が何か"まっとうな"思考の結果となるような言明の変換になっている、という状態は"原理的"に可能だろうか? 例えば、「言葉は意味を持てるのか」という問いを意味するバイナリ列を与えればクワス算の話でも始めてくれるようなマシンはあるのだろうか。このようなマシンが存在すれば、そいつは哲学史を何も学ばずになぜか不思議なことに突然哲学的思考が可能になったやつだ、ということになる。ここでいちばん大事なのは、こういうマシンを人間が作れるか、ということではなく、端的にそこにこのようなマシンが存在するというような状況は可能か、が問われているということだ*4。工学的な実現可能性なんてものはこの議論に一切入ってこない。

 確かそこまで考えたところで当時相互フォローだった京大文学研究科の五十嵐涼介氏(@igarashi_50)が反応し、哲学史がいかに大切かを説明してくれた。説明してくれるのは大変ありがたいが、彼は僕が何を問うているのかあまりうまく理解できていないようだった。彼の説明は「実際に人間が哲学を勉強するときになぜ哲学史を学ぶことが必要なのか」に終始していたように思う。僕は人間の(それも統計的な)話なんて一切興味がなく、哲学機械が"原理的"に可能かどうかという話しかしていなかった(はずだ)。この問いの意図を理解するのはそんなに難しいことではない。これまで何千人も何万人も、それどころではない大勢が同型の問題を考えてきただろう。小さな子供が考えていたっておかしくない。おそらくその時は少し言葉足らずだったのだと思うが、その旨をいくら伝えようとしても彼にはまったく通じなかった。ウィトゲンシュタインはあまり哲学史に明るくなかったのではないか、というミスリーディングな例を挙げてしまったのも悪かったのだろう。しかし、全体としてはそれほど不十分な説明ではなかったと思うし、後述のように京大の教員に口頭で数十秒説明しただけで意図はほとんど完全に伝わっていた。まともな専門家ならここまで解きほぐせば何を言っているかがわかるだろう。いらいらしつつエアリプでやり取りをしていると、フォロー外の彼の取り巻きが「親切に教えてやっているのになぜわからないんだ」だとか「こういう哲学史を学ぶことが不要だと思っている素人に困らされている」なんて*5言及してきた。五十嵐氏もそいつに同調してそのような態度を取り始めたので、さすがに僕も*6だんだんと攻撃的な姿勢になっていった。じきに外野がざわざわと騒ぎ出し、何人かが言及するようになった。同志社大学のダメ太郎スマイル(@ootake1107)なんてやつの発言もかなり失礼だったように記憶している。彼は何かあるたびに問題をまったく把握しようともせず失礼なことを言い捨てていくのだ。まあ彼のことはどうでもいい。あくまでも僕視点では、なんでこんなにも哲学史にこだわるんだろう、という言及が多かった。日本でラッセルを研究していたが「あんなのは哲学じゃない」と言われ肩身が狭かった人、海外で哲学を学んで「哲学史を重視しすぎる教育が有能な若手を潰していた」と怒っている人、等々もいて*7、僕に肯定的であること自体は嬉しかったし当時も感謝していたが、今になって考えると彼らもやっぱりあまりうまく問題を把握していなかったのかな、と思う。僕は人間の、それも統計的な話なんてしているわけではなく、特定のマシンが"原理的"に可能か、ということにしか興味がない。実際にこの世界で生活している人間の話なんてしていない。自分が哲学史を学ぶことが不要なんて決して思ってはいないし、理学研究科の学生にしてはよく勉強しているほうだと思う。もちろん、こんなものでは足りないが。それはそうと、関係のない話を延々と続けられ、そういう話ではないといくら説明しても(相手が専門家であるにもかかわらず)理解されないのは愉快なものではない。

 五十嵐氏ら*8の特に良くなかったところは、「哲学史は絶対に必要である」ということがあたかも哲学界でコンセンサスが取れていて、それを理解しない素人に日々悩まされているという態度を取ったことである。当時仲良くしていた他大の博士課程の友人とはこのことをきっかけに疎遠になってしまった。彼は「あなたの言う通りだが、そこそこ立場のある五十嵐氏といざこざを起こして哲学界での自分の立場を悪くしたくない」と言って僕から離れていった*9。僕は修士課程在籍中にいくつか分析哲学系の講義や演習を受け、日本で分析哲学を研究する者なら誰でも知っているような教員に最初の問いと同型の問いを投げてみたが、すぐに「もちろんそれは統計的な話だ」との答えが返ってきた。少しも迷わず、即答だ。なんだ、コンセンサスなんて全然取れていないじゃないか*10。当時僕を糾弾していた人々は、この教員も同じように罵倒するのだろうか。どうせどちらも京大に所属しているのだし、この教員と直接会ってもらって(当然もう会ってはいるだろうけど)どうするか見てみようか。権威に怯まず立場を崩さなければ、それはそれで尊敬に値するだろう。まあいい。とりあえず、大切なことの確認ができてずいぶんと気持ちが軽くなった。

*1:ここでは"原理的"という言葉に異なる3つのニュアンスを込めている。ひとつ目は「統計的には無視できるほど低い確率であっても物理法則と矛盾しないしかたでありうる」、ふたつ目は「物理法則と矛盾するかもしれないが想像すること(絵に描くこと)は可能である」、みっつ目は「想像すること(絵に描くこと)はできないがそうであることは可能である」、というものだ。それぞれは「何度サイコロを振っても1から6の目が順番に出る」、「(この記憶を保持した状態で)気がつくとこの視界がロボットの目から開けていて、そのロボットの身体だけを動かすことができる」、「ある時点でこの世界があるロボットから開ける(すなわちこの記憶はロボットへの開闢点の移動に伴って消え、移動したという事実もわからない)」という事態に対応する。

*2:もしかしたらどこかで触れているかもしれないが、覚えていない。

*3:これがそもそもうまくいくのか、ということはかなり大きな問題だ。しかし、人間だってまったく同じように書かれた問題でも同じように理解しているという保証はない。

*4:これは「他人がじつはみんなロボットなんじゃないか」という懐疑の部分問題なのだから、他人がじつはロボットであったということが可能であるならば当然このようなマシンも可能だろう。あなたの指導教官がじつはロボットだったという場合を考えてみよ。

*5:もちろん原文ママではないが、もっと失礼で乱暴な発言が繰り返されたように思う。

*6:しかしずいぶん我慢して相手を尊重した態度を取っていた。今はもっと気が短いのであれほど長くは耐えられなかっただろう。

*7:この肩書きもだいぶうろ覚えなので間違っていたら申し訳ない。

*8:五十嵐氏本人はそこまで強調していなかったような気もするが、まあ静止せず同調していたので同罪だろう。

*9:多くの人が知っている通り、彼との間にはもっと大きな問題が生じてしまったのだが。

*10:ついでに関係者と近そうな界隈での話をすると、ツイッターでは他にも石畑隆氏(@ishihata_purple)氏が「これは統計的な話だ」ということに同意していた。五十嵐氏らのような主張をしている人を当時いきり立っていた数名を除いて見たことがないのだが、彼らは普段から多くの同業者に怒りを向けながら研究を続けているのだろうか。

すぐ恋愛の話をする社会が嫌い

 正確には、人は誰でも恋愛をするものだ、そのことについて他人と話すものだ、という同調圧力が嫌いだ。タイトルは僕がサークルクラッシュ同好会の会員として関西テレビ「桃色つるべ」に出演した際、僕の名前の上に書かれていた一文だ。

 

 開口一番、とまではいかなくとも、日常会話の最中に他人から「恋人はいるの?」と聞かれたことのある人は多いだろう。この世界は性愛を中心に動いている。少なくとも僕にはそう見える。空気は性愛で満たされていて、窒息してしまいそうだ。これは僕用の空気じゃない。言葉は性愛で構成され、それを受け取る目も耳も、それを発するこの口も、どこかぎこちなく動く。これは僕用の言葉じゃない。

 僕はここで性的指向の話をしているわけじゃない。エイセクシュアルだとか、デミセクシュアルだとか、エイロマンティックだとか、そういう性的マイノリティじゃなくとも性愛中心主義は息苦しいものだ。実際、僕はこういうふうにカテゴライズされることに強い違和感を覚える。わざわざ「するほう」と「しないほう」で分けて「しないほう」を名乗るなんて、まるで「する」か「しない」かが人間にとってものすごく重要なことみたいじゃないか。

 街を歩けば広告が、テレビを点ければドラマが、バラエティが、人は恋愛をするものだと語りかけてくる。どこかに性的指向の指す向きがあることを前提としたクィア運動を見て、また「ここまで来たって僕用の言葉はないんだ」と肩を落とす。確かに、歴史的には性的マイノリティは差別されてきたし、いまも差別されている。だから自分たちの性愛の権利を守るために声をあげ続けなければ”殺されて”しまうだろう。彼らにとってそれは死活問題で、僕はただ性愛の空気からの逃げ場がないことを我慢していさえすれば”普通に”生きていくことができる。僕のような人間に配慮する余力は彼らにはない。これは仕方のないことなんだ。我慢すれば済む。たかが数十年だ、どうってことはない。

 

 自分の居場所がないなら作ればいいじゃないか、と言われてしまうかもしれない。”禁煙席”を作るというわけだ。でもどうやったって、煙が漏れ出てくるのは避けられないし、生きるためには”喫煙席”を通らなきゃいけない。誰だって少しは目が痛くなるようなものを視界に入れながら生きている。誰だって誰かに副流煙を吸わせながら生きている。表現の自由は守られなきゃいけない。それでもやっぱり僕にとっては、この世界にはあまりにも刺激物が多すぎる。僕にはこの話をわかってくれる友達が何人かいる。彼らといる間、僕は”禁煙席”に座っていると言えるかもしれない。束の間の休息に過ぎないのだけれど。

 他人が恋愛の話をするのを聞くのが許せない、というわけではない。僕も場合によっては自発的にそういうテーマを選択して会話をすることがある。ただし、絶対にそれを他人に押し付けたりはしない。あくまでも、人間って恋愛するもんでしょ、というような決めつけ(本質主義)がダメなんだ。しない人もいる、はい覚えた覚えた、じゃ意味がない。する/しないの二項対立が生じる時点で恋愛というものが他と比べて特権化されてしまう。デミセクシュアル、のようにセクシュアリティの一種としてこれを記述することへの抵抗感もここに起因している。では性について一切の分類をするなというのか? と言われると、これも違うと答えるしかない。そうやって性的指向に名前をつけることで生きやすくなる人もいるのだから、これを否定するわけにはいかない。ただ、(あるともないとも言いたくない)「これ」に名前をつけること自体が抑圧になってしまうような人間もいる、ということだけ頭の片隅にでも置いといてくれれば、僕も少しは生きやすくなるかもしれない。

 

 読者の中には、じゃあなんでサークルクラッシュ同好会なんて入ってるんだ? と思った方もいるだろう。サークルクラッシュ同好会はLINEグループに入ったら入会となる。僕は大学の後輩からふざけてこのグループに入れられたので、完全に自分の意思で入会したというわけではない。それでもここに残り続けて(色々あって一度抜けていた時期もあったが)いるのは、特に性愛についてよく考えている集団の中の方がむしろ性愛中心主義の生活への侵食に気づいている人を見つけやすいからだ。ここには恋愛などの人間関係で悩んでいる人々が多く集まっている。その中には、自分がコミットしていない(あるいは必要もないのにコミットさせられていると薄々感づいている)性愛中心主義の社会からの押し付けが悩みの原因であるような人もいる。そうでなくとも、それが誰かの悩みの原因になりうるという事実にリアリティを感じることが、性愛をテーマとすることによって可能となるような人もいる。僕はこの可能性に賭けたい。さっき言った「わかってくれる友達」もサークルクラッシュ同好会の会員だ。僕はここに来てよかったと思う。

 

(この記事はサークルクラッシュ同好会会誌vol.7に寄稿したものである。)

疲労困憊

まだ知能の低い人々が騒いでいるのがたまに視界に入ってきて不快なので愚痴でも書いておこう。多くの人が知っている通り、僕(と数名)はメンヘラ.jpというサイトに対して「差別的表現の含まれるページがある」(そして運営者の個人的発言にもその差別的意識が表れている)という批判を投げていた。サイト運営者が批判者に対してデマをばら撒いて中傷するなどの悪質な行為で対応したため、問題はかなり大きくなった。しばらくしてその表現は改善されたのだが、日本語の文章を理解することのできない大勢の馬鹿が僕たちの批判に対して「ではメンヘラ.jpに障害者が好き勝手に書いた危険な記事を載せろというのか」などとトンチンカンなことを言って粘着してきたのだ。メンヘラ.jpは事業でやっているのだからそんな危険なことはできないだとか、僕の話とはまったく関連性のない主張を投げつけてきて、彼らは気持ちよくなってどこかへ行った。実際に(比較的)差別的でない表現に差し替えられたのだから何が「できない」のかまったくわからない(現にできているではないか!)のだが、どうにも彼らにとってはあまりにも難しすぎる話だったらしい。そのことは https://nugum.net/introduction でも解説されている。そもそも差別的であるという批判が不当であるなどと言う愚か者もいたが、そうであればメンヘラ.jpが差別的であると(鍵アカウントで、だが)名指しで批判する精神科医が存在することはどのようにして説明されるのだろう。僕はその医師の講義を受けていたのだが。

とにかく、僕はもう文章を読むことのできない人々を相手することに疲れ切ってしまった。おそらくもうこの話題には触れないし、触れたくもない。この記事を最後に、誰が何を言おうと無視をするだろう。

最近は籠原スナヲという馬鹿の中でもとりわけ知能の低い人間がウダウダと騒いで上記のような主張をまた繰り返していた。何をどう読んだらそういう物語を読み取ることができるのかわからない。しかし、知能の低い人々はいつも僕の予想をはるかに超えた物語を創作する。いくら当事者がそれは間違いだと指摘しても決して間違いを認めず、現実よりも自分のなかにあるストーリーを重んじるのだ。まったく関わり合いになりたくないものである。しかし、僕は人が馬鹿であることや知能が低いことによって迫害されることは道徳的でないと考えているし、馬鹿であることや知能が低いことによる蔑視などあってはならないと考えているので、なんとも苦しいことに、いくら有害であっても彼らを心から非難する気にはなれないのだ。(もしこの文章から蔑視の意図を読み取ったとすれば、もう一度、もっと注意深く読むか、目についた話題にかんして何か言いたくなったとしても黙るという賢明な方向へと舵を切るようつねに心掛けることを勧める。)いやはや、どうしたものか。

9月9日文学フリマ大阪にて大倫理文学第3巻『インターネットの神様』頒布

 9月9日に開催される文学フリマ大阪にて、インターネット大倫理文学第3巻『インターネットの神様』を頒布します。青本舎ブースは H-19 です。

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 第1巻・第2巻に引き続き、四流色夜空(@yorui_yozora)さん、かみしの(@KamisinOkkk)さんに小説を寄稿していただきました。庄司理子(@shoji_riko)さん、杞憂ちゃん(@jocojocochijoco)も第2巻からの参加です。

 第3巻ではイラストに梓義朗(@bIFXaQ)さん、林美月(@H_M_izuki)さん、小説に異島工房(@Itou_Cocoon)さん、社会的信用がない(@shelliemay26)さんを新たに迎え、付属CDには奴隷商人(@r_devil_c)さんと僕の音源を収録しています。今回もよろしくお願い致します。第1巻と第2巻も僅かながらまだ在庫があります。

 

 ブースを机ひとつぶん確保しているので、何冊か委託も受け付けることができます。

 

第6回文学フリマ大阪

日程:9月9日(日) 11:00~17:00

会場:京阪・大阪メトロ天満橋駅すぐ OMMビル2F B・Cホール

庄司理子個展「何も無い中に在る」を見た

 アトリエ「空白」にて開催されていた庄司理子個展「何も無い中に在る」を見てきた。見てきたと言っても2か月も前のことである。新年度はじめで色々と立て込んでいて感想を書くのが遅れてしまった。申し訳ない。

 前回の個展「生まれゆく欠片たち」の感想はこちら。

sutaro.hatenablog.jp

 「何も無い中に在る」は庄司理子大学卒業後初の個展だ。2015年から2018年までの作品が展示されており、大学在学中に彼女の絵がどう変わっていったかも見ることができる。女の子を真ん中に大きく配置した絵では、2015年頃のものだと今より“キャラクター”っぽさを感じる。背景の色はあたたかめで、少女の色とはまだ強く分化されていない。完成された一枚の絵、という印象がある。対して2017, 2018年の少女の絵はより写実的で、背景もシンプルに塗られている。少女と背景の境界はよりハッキリと意識させられ、まさに“何も無い”空間の中に質量を持って存在しているように見える。

 

 個展のステートメントにはこう書かれている。

世界は人の思う美しい形で待ってはいない

どこまでもばらばらの一人ぼっち

でもそこに境界線はなく、全てどろりとしたひとつの海

一瞬現れただけの錯覚のようなもの

でもそれは確かにそこにある

どの角度から見ても同じ色のものでありたい

でもそんなことは不可能だ

見つけたものは本当か

自分の中には他者がいる

沢山の矛盾を抱きしめて

何も無い中に在る

 前回「生まれゆく欠片たち」で彼女は「誰かがいいと言ったら価値が化ける事がある」「生まれたくないのに生まれさせられて 「何者」かから自己をあたえられて」と“自分”や“価値”などといった作者あるいは作品に内在する(と自然に考えてしまうような)ものの不安定さについて考えていた(と思う)。そういった不安定さを取り除くことなんて不可能だ。僕たちはどう見られるかによってどう在るかを否応なしに変えられてしまう。誰にも見られない自分なんていない。自分を形づくる誰かに、僕たちは常に見られているのだから。けれども僕たちは、作品は、とにかく在り続けていく。在り続けていくしかない。

取り急ぎまとめ

 借金玉が自覚的か無自覚的かわからないが間違った情報しか流さないので自分の記憶を整理するためにも経緯をまとめておく。気を抜くとこっちの記憶まで曖昧になってきてしまう。借金玉が僕からビジネスを持ちかけたと言っていたので「ああ、僕ビジネスって単語使っちゃったんだな」とつい思ってしまったけど自分のツイートを遡ってもそう捉えられ得るような発言が見つからないので騙されている可能性がある。後で時間があるときにこれも含めて自分の過去ツイートをちゃんと掘ってみる。

 

 事の発端は3月13日。借金玉が直接会って話したいなどと懇願してきた。シャベルとかいうアカウントが途中で話をややこしくした記憶があるけれどもよく覚えていない。5ch民たちがシャベルは借金玉のサブアカウントだと言っていたのでとりあえず借金玉さんと呼んでみたりしたような気がする。本当に同一人物なのかは知らない。会う理由もなかったし、彼がくろぺ氏やまなべ氏に違法な攻撃・暴力を仄めかすようなツイートをしているのを見た(5chに大量の魚拓がある)ので、まあそういうことだろうなと思って「京都でイベントスペースやってる知り合いが何人かいるので、そこで対談生放送という形式ならいいですよ」と言ってみた。一対一なら何をされるかわからないので衆人環視のもとでやる必要がある、言った言わないの無駄な小競り合いになるのを防ぐために記録をしなければならない。じゃあ来てない人も一緒に盛り上がれるように生放送でいいじゃん、というわけだ。ゲンロンカフェっぽい雰囲気にしたかった。「京都が嫌ならゲンロンカフェでもいいですよ」とも言った。お願いされている立場でありながらわざわざ東京に出向いてもいいなんて最大級の甘やかしをした。「顔出しできない」と言って最初の(僕に身体的リスクがあるだけのまったく受ける理由のない)条件で会おうとしつこく絡んできたので「着ぐるみ着用可」とか色々折衷案を出したのだけれども結局彼がこの親切に応じることはなかった。こちらは京都でワイワイ楽しく盛り上がってあわよくば身内で金を生んで回す等のことができないのなら特に会う理由はないので話は消えた。この時点でキャパについて文句を言われた覚えがない(忘れてるだけかも)のでゲンロンカフェくらいの広さと雰囲気という共通認識はできているのだと思った。

 

 昨日になってなんか借金玉が条件をすべて受け入れるから会おう、ビジネスをやろうとかなんとか騒いでいるという噂を聞いた。ㅤ僕は3月条件(京都のイベントスペースで生配信)を受け入れるのならと周囲に「なんかビジネスをやろうとか言ってるので左京区でイベントスペース用意してください」と呼びかけた。すると借金玉は金を払うから東京でやろうなんて言い始めたではないか。ならばゲンロンカフェでやるのかと思いきや、そのキャパでは駄目らしい。意味がわからない。条件をすべて受け入れると言っておきながら借金玉の提案は対談生放送というほんの一部の条件しか満たしていなかった。当然「話が違うじゃないか」ということになる。この時点で受ける理由はないのだから断ればよかったものを、僕はムキになって「条件をすべて受け入れる」という言葉を真実のものにしようとしてしまった。つまり、3月条件で対談を実現させるということだ。すでに何人も指摘している通り、僕には東京で現在地が割れるのを恐れる正当な理由がある。このブログで最大のPVを記録した記事で詳細に書かれている、渋谷でホワセプから受けた犯罪被害だ。ホワセプはシェアハウスのパーティにスパイを送り込んできたり(自分でツイートしていたし実際にそれらしき人物が確認されている)していて、何をしでかすかわからない危険な人物だ。そもそもこいつはシリアに渡航しようとして捕まり、現在も公安の監視下にあるのだから、それだけで危険性を説明するには十分だろう。何を言ってるのかわからないという人間はディープウェブアンダーグラウンドの動画でも見てくれ。とりあえず借金玉がホワセプを呼びそうな流れになってきたので東京に行くことは避けなければならなくなった。そもそもゲンロンカフェをキャパの問題で却下するのなら3月条件に反する。だから僕が京都でやろうと言って譲らないのは当然のことだ。借金玉は「条件をすべて受け入れる」と言っていたのだから。これまでの文脈を捏造して「条件をすべて受け入れているのに相手が逃げた」などと言われてはたまったものではない。僕は何がなんでも彼が昨日宣言した通りに3月条件を受け入れさせることにした。言葉には責任を持ってもらわなければならない。もう30を超えたいい大人なのだから彼もわかっているはずだ。……わかっているのか?

 気軽に話しかけることのできる人間がいて、なおかつ規模の大きなスペースとしてまずフロントラインが思い浮かんだ。ちょうど先日フロントラインのオープンパーティで「まだ借金玉来ねえのかな〜もう2ヶ月も待ってんのにな〜」みたいな話をしていた。ダメだったら他をあたろうと、まずフロントラインの代表に声をかけてみたところ、いきなり開催が決定した。ああよかったよかった、これで存分に盛り上げることができるぞ、と喜んでいたら、借金玉が突然今井くんを攻撃しはじめた。彼は自分が招かれているゲストか何かなのだと勘違いしている、あるいは聴衆にそう思い込ませたいようだった。あんなに会ってくれと懇願していたのを、義理なんてないにもかかわらず、驚くべき親切心でここまでセッティングしたのに、今度は客人然として主導権を握ろうとしている。まったくわけがわからない。自分ですべての条件を受け入れるなどと言っておいて、いざ僕が乗り気になるとゴネるのだ。また2ヶ月前と同じか、と落胆した。しかし今回は他のシェアハウスからも「うち使っていいよ」と打診を受けるくらい話が進んでいる以上、引き返すことができない。3月条件を少し緩めてでもイベントを実現しなければならない。とりあえずキャパの問題を片付けることにした。現在、京都市内でいくつか3桁キャパのスペースに目星をつけている。フォロー外から熊野寮食堂なんて提案も出てきた。いいアイデアだと思う。数ヶ月前に熊野寮でやっていた外山恒一トークショーに行った。十分な広さだったと記憶している。住人によれば食堂には300人も入るそうだ。もしも他の企画プロセスがうまくいかなくとも、最悪の場合ここでやれば中止なんてことにはならないんじゃないか。ここまで考え努力して、みんなが借金玉自身の言葉を真実のものにしようとしているのに、借金玉やその周辺の人間が「逃げようとしている」「身内で囲んでリンチしようとしている」なんて妄想を垂れ流しているのはどういうことだろうか。僕にはまったく理解することができない。

 わからないものはしかたがない。いまはただ、このイベントをよいものにすることだけを考えよう。

 

追記:詳細をtogetterにまとめた。こちらのほうが正確なので要参照。

togetter.com

インターネット大倫理文学第3巻寄稿者募集

 9月9日(日)の第六回文学フリマ大阪で青本舎からインターネット大倫理文学第3巻『インターネットの神様』を発行します。第1巻『グッバイグーグルアイ』、第2巻『問題のある子』に引き続き、掲載作品の募集を行います。皆様、奮ってご応募ください。 @book_blue_book または僕にDMでお願いします。

 小説、詩、短歌、エッセイ、学術論文、イラスト、その他だいたいなんでもOKです。表紙のみカラー、紙面はモノトーンとなります。サイズはA5+上下左右ヌリタシ3mmです。最終稿は8月中旬頃まで。インターネット上で先に発表されている作品は不可ですが、過去に他誌で掲載されていて現在入手不可能な作品の再掲載は(そちら側で問題がなければ)可能です。

 第3巻のテーマは「インターネット」と「救済」ですが、必ずしもこれに沿っていなければならないということもありません。それっぽいのだとありがたいです。タイトルは仮に『インターネットの神様』としていますが確定ではありません。

 

 第1巻および第2巻は青本舎ショップから購入することができます。