ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

「ポール・ド・マン論争」論争にかんするメモ

 発端は借金玉(@syakkin_dama)氏の以下のツイートである。

好きなデリダですが、ポール・ド・マンが昔コソっとナチってたのが死後バレてシバいていく方針になったときに「よく読めよ!どうみたってこれはナチに反対するアレだろ!読めよ!」ってキレて「おまえの理屈で考えてそれ無理筋だろ」って怒られたデリダです。

 

「まー、長い人生ナチってしまうこともあるよ。それはともかくあいつええもん書いてるだろ」くらいの穏当な反論をすればよかったんだけど、「あれはそういう意味じゃないんだ!」っていったので、ここぞとばかりにシバかれた。何せ、発話の意味を一意に定義するってのはデリダの思想とは相性悪い。

 「デリダがそんなこと言うか?」と思ったのと、以前高橋哲哉デリダ』でまったく違う解説を見た記憶があったのとが僕のソーカル魂を呼び起こしたので検証することにした。デリダポール・ド・マン論争に言及したテクストは J. Derrida, Like the Sound of the Sea Deep within a Shell: Paul de Man's War, Critical Inquiry, Vol.14, No.3, (1988), 590-652. くらいしか知らないので、こいつを読めばいいのだと思う。申し訳ないがフランス語は苦手*1なので Peggy Kamuf 訳を参照することを許してほしい。この記事で挙げられるテクストはすべて和訳あるいは英訳のみの確認にとどまっている。

 まず、高橋哲哉氏の解説を見ておこう。少し長いが、引用する。注は引用者によるもの。

ポール・ド・マン論争は、同年*2一二月、今度はアメリカではじまった。脱構築批評の第一人者ポール・ド・マンが、一九四一年から四二年にかけて、ナチス・ドイツ占領下のベルギーで親ナチの新聞に寄稿していたこと、記事の一つ*3は明らかに反ユダヤ主義的主張を盛っていることが、ベルギー人研究者の調査で判明し、『ニューヨーク・タイムズ』の一面記事で報道されたのである。ド・マンはすでに八三年に死去し、デリダはやがて『記憶=回想――ポール・ド・マンのために』(一九八八)に収められることになる追悼講演や講義をしていた。「アンチ脱構築の役人たち」にとっては、千載一遇のチャンス到来である。ハイデガーのケースと同じく、「下手人」の亡霊を悪魔祓いしようとする攻撃が開始され、若きド・マンのナチ協力と渡米後の沈黙が、脱構築の倫理的不健全さと政治的いかがわしさの疑う余地なき証拠とされた。ナチ=ド・マン=デリダの連想の成立である。これに対してデリダは、覇権下でのヨーロッパ新秩序、フラマン・ナショナリズムといった全体主義的諸要素も広範に見られることを基本的に承認し、「苦痛に満ちた驚き」を味わったとしながらも、ド・マンのテクストはけっして単純に等質的ではなく、そこには右*4の諸要素をみずから裏切るような諸契機も同様に存在する、と主張する。そして、その後のド・マンが完全に手を切った二〇歳台はじめの過ちを理由に、ド・マンの業績全体と脱構築をも葬り去ろうとすることは断じて容認できない、と応じたのである。

 ド・マンの記事を読んでいないのであまり踏み込んだことは言えないが、しかしこれが本当ならデリダの主張としてまったく違和感なく読むことができる。なんらかのルートでデリダに触れたことのある方々は「(少なくとも形式的には)一定の譲歩をしつつも、そこにはべつの可能性がつねにつきまとうということを示す」というやり方を何度か見た覚えがあるだろう。デリダは自分の哲学的手法の厄介さを自覚していた。その態度は例えば彼の著作 Histoire du mensonge: Prolégomènes の終盤などでうかがい知ることができる。だからデリダが先のツイートのような形で雑に自分の言説に絡めとられるという状況があまり想像できないのだ。

 借金玉氏が根拠としているテクストはエヴァンズの In Defence of History である。エヴァンズによる論争の紹介はまだ確認していない*5が、塩川伸明氏のサイト*6にまとめられているようなので、ここを参照してほしい。

 

 さて、デリダが「よく読めよ!どうみたってこれはナチに反対するアレだろ!読めよ!」と言ったのかを見てみよう。当該誌のp.600及びp.601から引用する。

 My feelings were first of all that of a wound, a stupor, and a sadness that I want neither to dissimulate nor exhibit. They have not altogether gone away since, even if they are joined now by others, which I will talk about as well. To begin, a few words about what I thought I was able to identify at first glance but a glance that right away gave me to see, as one should always suspect, that a single glance will never suffice―nor even a brief series of glances.

 ド・マンの“反ユダヤ的”記事を読み、デリダは深く傷ついたという。そして、その気持ちは今でも完全には去っていない。ド・マンの記事に悪い部分があることを認めたという点では高橋氏の説明と一致する。しかしここでデリダは「怪しむべき」と留保しているから、早まらずに注意して読み進めなければならない。なぜ傷ついたのか。彼は3つの理由を挙げる。

 A painful surprise, yes, of course, for three reasons at least: (1) some of these articles or certain phrases in them seemed to manifest, in a certain way, an alliance with what has always been for me the very worst; (2) for almost twenty years, I had never had the least reason to suspect my friend could be the author of such articles (I will come back again to this fact); (3) I had read, a short while earlier, the only text that was accessible to me up until then and that was written and signed by Paul de Man in Belgium during the war. Thomas Keenan, a young researcher and a friend from Yale who was preparing, among other things, a bibliography of de Man, had in fact communicated to me, as soon as he had found it in Belgium, the table of contents and the editorial of an issue from the fourth volume of a Brussels journal in which de Man had published his first writings. He had been a member of the editorial committee, then director of this journal, Les Cahiers du Libre Examen, Revue du cercle d'étude de l'Université Libre de Bruxelles, founded in 1937. Now, what did this editorial say in February 1940, at the point at which de Man had just taken over the editorship, in the middle of the war but right before the defeat? Without equivocation, it took sides against Germany and for democracy, for "the victory of the democracies" in a war defined as a "struggle ... against barbarity." This journal, moreover, had always presented itself as "democratic, anticlerical, antidogmatic, and antifascist." Here then are three reasons to be surprised by the texts dating from the following year and that I discovered with consternation.

 ひとつ目の理由。この記事にはいつもデリダにとって最悪だったものとの同盟関係が現れているらしいこと。すなわち全体主義である。ふたつめの理由。デリダはド・マンがこのような記事を書くなどと疑ったこともないこと。そして、ド・マンが問題の記事を書くほんの少し前に「民主主義に賛成する」テクストを発表していたこと。

 But I said that right away I had to complicate and differentiate things, as I will have to do regularly. My surprise did not come all at once. Even as I reassured myself ("good, during his Belgian youth that I know nothing about, Paul was, in any case, on the 'right side' during the war!"), what I had quickly read of this editorial left me with an uneasy feeling and an aftertaste. In passing, but in a clearly thematic fashion, I was able to identify their source. And here we approach the heart of the problems we have to talk about. They are not only Paul de Man's problems, but those of the equivocal structure of all the politico-philosophical discourses at play in this story, the discourses from all sides. Today, yesterday, and tomorrow―let the dispensers of justice not forget that!

 right side は「正しい側」と「右側」をかけた言葉遊びだ。デリダはド・マンの記事から自らが読み取ったものに不安を感じた。彼は不安の出所が「我々が話題にしなければならない諸問題」であることを突き止めたという。その諸問題はド・マンだけではなく、この物語のなかを浮遊しているすべての政治的、そして哲学的論説――あらゆる側からの論説――の両(複)義的な構造の問題である。

 以降、デリダはド・マンのテクストから「上の諸要素をみずから裏切るような諸契機」を抽出していく。ここで問題となるのは、借金玉氏が言うようにデリダがド・マンの記事の「意味を一意に定義」しているか否かである。ド・マンの記事を読んでデリダが感じた気持ちが「今でも完全には去っていない」こと、そしてデリダがあくまでも equivocal と表現していることが解答であると言ってしまっても良さそうだが、もう少し本文を拾っておこう。p.631から引用する。

 Through the indelible wound, one must still analyze and seek to understand. Any concession would betray, besides a complacent indulgence and a lack of rigor, an infinitely culpable thoughtlessness with regard to past, present, or future victims of discourses that at least resembled this one. I have said why I am not speaking here as ajudge, witness, prosecutor, or defender in some trial of Paul de Man. One will say: but you are constantly delivering judgments, you are evaluating, you did so just now. Indeed, and therefore I did not say that I would not do so at all. I said that in analyzing, judging, evaluating this or that discourse, this or that effect of these old fragments, I refused to extend these gestures to a general judgment, with no possibility of appeal, of Paul de Man, of the totality of what he was, thought, wrote, taught, and so forth.

 デリダは「ド・マンの裁判において私は判事や証人、検察あるいは弁護人として語っているのではない」という。しかし「お前は絶えず判決を、そして価値判断を下している」と言う者もいるだろう。デリダはこう弁明する。「そのようなことをまったくしないつもりだとは言っていない。こう言ったのだ。この論説やあの論説、これらの過去の断片のこの効果やあの効果、そういったものの分析・判決・価値判断において、ド・マンが存在したり、考えたり、書いたり、教えたり等々の全体によって上訴する可能性がもうないゆえに、私はこうした身ぶりを一般的な判断に拡張することを拒んだ」。彼はド・マンの記事の「意味を一意に定義」することを明確に拒否している。

 

 かくして、僕たちのデリダ裁判はひとつの判決を出した。僕は判事や証人、検察あるいは弁護人として語ることを拒むつもりはない。だが、どのような批判にせよ、すでにデリダが上訴する可能性がもうないゆえに、この態度は――少なくともデリダの目には――誠実さに欠けているように見えるかもしれない。

*1:学部時代唯一単位を落としたのがフランス語である。起床が無理だった。

*2:1987年。この年にはハイデガーとナチズムの関係が問題とされた「ハイデガー論争」も勃発した。両論争において、ハイデガーデリダデリダとド・マンを繋ぐ「脱構築」概念はほとんど言いがかりのような批判を浴びた。

*3:ユダヤ的とされる記事がひとつだけであることはエヴァンズの紹介からもわかる。ただし要検証。

*4:横書きなので、ここでは上。

*5:夏休み中なので大学図書館に寄る機会がない。大阪市内の図書館に一冊存在するらしいので、借り次第追記する。しかし、借金玉氏のエヴァンズと実際のエヴァンズが一致しているかどうかはここではさほど重要でない。

*6:http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/books/deman.htm