ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

コンピュータは哲学者になれるのか?

 その本を買ったのがたしか昨年の4月だったはずなので、コトが起きたのはおそらくそれより後だったはずだ。修士課程1年目が始まってすぐ、僕は大学近くの吉岡書店で『コンピュータは数学者になれるのか?』を買って読んでいた。『コンピュータは数学者になれるのか?』では人工数学者が"原理的"に*1可能かという哲学的問題には明確には触れていないように記憶している*2が、読み進めていくうちに僕はそちらの問題のほうが気になってきた。僕の興味はべつに「数学者」に限定する必要もないものだった。「コンピュータは哲学者になれるのか?」という問題でもまったく構わないだろう。もっと正確に言えば、これは「ロボットは人間になれるのか?(それらの間に違いはあるのか?)」という古典的な問題への誰もが一度は抱きうる興味のたんなる言い換えである。

 先に言っておくが、この記事は哲学の問題について考えるための記事ではない。昨年あった極めて不愉快な事案について、僕の中でひとまずの決着がついた(案の定僕が間違っていないことを当時より強く確信することができるようになった)ということを報告するだけのものだ。もうかなり前のことだし具体的な日時も覚えていないので当該ツイートを引っ張ってくるのが難しく、細部に記憶違いもあるかもしれないが、だいたいはこの通りのことが起きていたと思う。違ったら当該箇所が読めるURLか何かを投げて教えてほしい。

 僕はツイッターでは基本的に思考がダダ漏れなので、先述の問題について考えていたことはすべてツイートしていた。具体的には、「哲学の問題を入力すると哲学者と同じように何らかの"まっとうな"思考の結果を出力するようなマシンは"原理的"に可能か?」ということについて考えていた。問いをもっと明確にしよう。0と1の列を入力すると0と1の列を印刷するようなマシンがあるとする。哲学の問題を0と1の列に変換し*3、これを入力すれば出力が何か"まっとうな"思考の結果となるような言明の変換になっている、という状態は"原理的"に可能だろうか? 例えば、「言葉は意味を持てるのか」という問いを意味するバイナリ列を与えればクワス算の話でも始めてくれるようなマシンはあるのだろうか。このようなマシンが存在すれば、そいつは哲学史を何も学ばずになぜか不思議なことに突然哲学的思考が可能になったやつだ、ということになる。ここでいちばん大事なのは、こういうマシンを人間が作れるか、ということではなく、端的にそこにこのようなマシンが存在するというような状況は可能か、が問われているということだ*4。工学的な実現可能性なんてものはこの議論に一切入ってこない。

 確かそこまで考えたところで当時相互フォローだった京大文学研究科の五十嵐涼介氏(@igarashi_50)が反応し、哲学史がいかに大切かを説明してくれた。説明してくれるのは大変ありがたいが、彼は僕が何を問うているのかあまりうまく理解できていないようだった。彼の説明は「実際に人間が哲学を勉強するときになぜ哲学史を学ぶことが必要なのか」に終始していたように思う。僕は人間の(それも統計的な)話なんて一切興味がなく、哲学機械が"原理的"に可能かどうかという話しかしていなかった(はずだ)。この問いの意図を理解するのはそんなに難しいことではない。これまで何千人も何万人も、それどころではない大勢が同型の問題を考えてきただろう。小さな子供が考えていたっておかしくない。おそらくその時は少し言葉足らずだったのだと思うが、その旨をいくら伝えようとしても彼にはまったく通じなかった。ウィトゲンシュタインはあまり哲学史に明るくなかったのではないか、というミスリーディングな例を挙げてしまったのも悪かったのだろう。しかし、全体としてはそれほど不十分な説明ではなかったと思うし、後述のように京大の教員に口頭で数十秒説明しただけで意図はほとんど完全に伝わっていた。まともな専門家ならここまで解きほぐせば何を言っているかがわかるだろう。いらいらしつつエアリプでやり取りをしていると、フォロー外の彼の取り巻きが「親切に教えてやっているのになぜわからないんだ」だとか「こういう哲学史を学ぶことが不要だと思っている素人に困らされている」なんて*5言及してきた。五十嵐氏もそいつに同調してそのような態度を取り始めたので、さすがに僕も*6だんだんと攻撃的な姿勢になっていった。じきに外野がざわざわと騒ぎ出し、何人かが言及するようになった。同志社大学のダメ太郎スマイル(@ootake1107)なんてやつの発言もかなり失礼だったように記憶している。彼は何かあるたびに問題をまったく把握しようともせず失礼なことを言い捨てていくのだ。まあ彼のことはどうでもいい。あくまでも僕視点では、なんでこんなにも哲学史にこだわるんだろう、という言及が多かった。日本でラッセルを研究していたが「あんなのは哲学じゃない」と言われ肩身が狭かった人、海外で哲学を学んで「哲学史を重視しすぎる教育が有能な若手を潰していた」と怒っている人、等々もいて*7、僕に肯定的であること自体は嬉しかったし当時も感謝していたが、今になって考えると彼らもやっぱりあまりうまく問題を把握していなかったのかな、と思う。僕は人間の、それも統計的な話なんてしているわけではなく、特定のマシンが"原理的"に可能か、ということにしか興味がない。実際にこの世界で生活している人間の話なんてしていない。自分が哲学史を学ぶことが不要なんて決して思ってはいないし、理学研究科の学生にしてはよく勉強しているほうだと思う。もちろん、こんなものでは足りないが。それはそうと、関係のない話を延々と続けられ、そういう話ではないといくら説明しても(相手が専門家であるにもかかわらず)理解されないのは愉快なものではない。

 五十嵐氏ら*8の特に良くなかったところは、「哲学史は絶対に必要である」ということがあたかも哲学界でコンセンサスが取れていて、それを理解しない素人に日々悩まされているという態度を取ったことである。当時仲良くしていた他大の博士課程の友人とはこのことをきっかけに疎遠になってしまった。彼は「あなたの言う通りだが、そこそこ立場のある五十嵐氏といざこざを起こして哲学界での自分の立場を悪くしたくない」と言って僕から離れていった*9。僕は修士課程在籍中にいくつか分析哲学系の講義や演習を受け、日本で分析哲学を研究する者なら誰でも知っているような教員に最初の問いと同型の問いを投げてみたが、すぐに「もちろんそれは統計的な話だ」との答えが返ってきた。少しも迷わず、即答だ。なんだ、コンセンサスなんて全然取れていないじゃないか*10。当時僕を糾弾していた人々は、この教員も同じように罵倒するのだろうか。どうせどちらも京大に所属しているのだし、この教員と直接会ってもらって(当然もう会ってはいるだろうけど)どうするか見てみようか。権威に怯まず立場を崩さなければ、それはそれで尊敬に値するだろう。まあいい。とりあえず、大切なことの確認ができてずいぶんと気持ちが軽くなった。

*1:ここでは"原理的"という言葉に異なる3つのニュアンスを込めている。ひとつ目は「統計的には無視できるほど低い確率であっても物理法則と矛盾しないしかたでありうる」、ふたつ目は「物理法則と矛盾するかもしれないが想像すること(絵に描くこと)は可能である」、みっつ目は「想像すること(絵に描くこと)はできないがそうであることは可能である」、というものだ。それぞれは「何度サイコロを振っても1から6の目が順番に出る」、「(この記憶を保持した状態で)気がつくとこの視界がロボットの目から開けていて、そのロボットの身体だけを動かすことができる」、「ある時点でこの世界があるロボットから開ける(すなわちこの記憶はロボットへの開闢点の移動に伴って消え、移動したという事実もわからない)」という事態に対応する。

*2:もしかしたらどこかで触れているかもしれないが、覚えていない。

*3:これがそもそもうまくいくのか、ということはかなり大きな問題だ。しかし、人間だってまったく同じように書かれた問題でも同じように理解しているという保証はない。

*4:これは「他人がじつはみんなロボットなんじゃないか」という懐疑の部分問題なのだから、他人がじつはロボットであったということが可能であるならば当然このようなマシンも可能だろう。あなたの指導教官がじつはロボットだったという場合を考えてみよ。

*5:もちろん原文ママではないが、もっと失礼で乱暴な発言が繰り返されたように思う。

*6:しかしずいぶん我慢して相手を尊重した態度を取っていた。今はもっと気が短いのであれほど長くは耐えられなかっただろう。

*7:この肩書きもだいぶうろ覚えなので間違っていたら申し訳ない。

*8:五十嵐氏本人はそこまで強調していなかったような気もするが、まあ静止せず同調していたので同罪だろう。

*9:多くの人が知っている通り、彼との間にはもっと大きな問題が生じてしまったのだが。

*10:ついでに関係者と近そうな界隈での話をすると、ツイッターでは他にも石畑隆氏(@ishihata_purple)氏が「これは統計的な話だ」ということに同意していた。五十嵐氏らのような主張をしている人を当時いきり立っていた数名を除いて見たことがないのだが、彼らは普段から多くの同業者に怒りを向けながら研究を続けているのだろうか。