ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

庄司理子個展「何も無い中に在る」を見た

 アトリエ「空白」にて開催されていた庄司理子個展「何も無い中に在る」を見てきた。見てきたと言っても2か月も前のことである。新年度はじめで色々と立て込んでいて感想を書くのが遅れてしまった。申し訳ない。

 前回の個展「生まれゆく欠片たち」の感想はこちら。

sutaro.hatenablog.jp

 「何も無い中に在る」は庄司理子大学卒業後初の個展だ。2015年から2018年までの作品が展示されており、大学在学中に彼女の絵がどう変わっていったかも見ることができる。女の子を真ん中に大きく配置した絵では、2015年頃のものだと今より“キャラクター”っぽさを感じる。背景の色はあたたかめで、少女の色とはまだ強く分化されていない。完成された一枚の絵、という印象がある。対して2017, 2018年の少女の絵はより写実的で、背景もシンプルに塗られている。少女と背景の境界はよりハッキリと意識させられ、まさに“何も無い”空間の中に質量を持って存在しているように見える。

 

 個展のステートメントにはこう書かれている。

世界は人の思う美しい形で待ってはいない

どこまでもばらばらの一人ぼっち

でもそこに境界線はなく、全てどろりとしたひとつの海

一瞬現れただけの錯覚のようなもの

でもそれは確かにそこにある

どの角度から見ても同じ色のものでありたい

でもそんなことは不可能だ

見つけたものは本当か

自分の中には他者がいる

沢山の矛盾を抱きしめて

何も無い中に在る

 前回「生まれゆく欠片たち」で彼女は「誰かがいいと言ったら価値が化ける事がある」「生まれたくないのに生まれさせられて 「何者」かから自己をあたえられて」と“自分”や“価値”などといった作者あるいは作品に内在する(と自然に考えてしまうような)ものの不安定さについて考えていた(と思う)。そういった不安定さを取り除くことなんて不可能だ。僕たちはどう見られるかによってどう在るかを否応なしに変えられてしまう。誰にも見られない自分なんていない。自分を形づくる誰かに、僕たちは常に見られているのだから。けれども僕たちは、作品は、とにかく在り続けていく。在り続けていくしかない。