ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

庄司理子個展「生まれゆく欠片たち」を見た

 12月14日(木)から本日25日(月)まで大阪ondoで開催されている庄司理子さんの個展、「生まれゆく欠片たち」を見てきた。庄司さんは夏の「おまーじゅじゅじゅ!」展に出展者として誘っていただいたほか、1月に青本舎から発行するインターネット大倫理文学第2巻『問題のある子』にも参加いただいた。

ㅤ今回の展では、昨年制作された120号の作品「献花」が解体され、その欠片をリメイクした12作品が展示されている。また、壁面の所々に庄司さんのアイデアメモの切れ端、スケッチ、小作品が貼りつけられている。メインの12作品に描かれた少女はこれまでの展示よりもいっそう庄司さん本人に似ているような気がする。会場およびオンラインストアで販売されている作品集よりも現物のほうがかなり鮮やかなので、残りわずかの展示期間に間に合うならぜひ見に行ってほしい(と書いているあいだに、もう17時を過ぎてしまった!)。

ㅤこの個展のメインである12作品はもちろんよい作品だが、庄司さんの展示に毎回足を運んでいる僕にとって、もはやそこはいちばんに見るべきポイントではない、と思っている。むしろ、メインテーマでないものに意識を向けたい。というのも、メイン作品が掛けられている壁面には、僕にとってはとても面白いものが貼りつけられていたのだ。いくつかの破かれたメモやスケッチに混じって、一部を燃やされた絵があった。ふちのところがしっかりと、綺麗に焦げついている。これは「生まれゆく欠片たち」というテーマとはちょっと違うのではないか。どちらかというと、死にゆく欠片に見える。だって焼けてるんですよ。この展示には2回行ったけれども、2回目を見終わったあとに僕は妹とこういうことを話し合った。庄司さんのいいところは、ついつい反発してしまうところなんだ、と。それは手放しの賞賛だったり脊髄反射的なカテゴライズだったり、そういう外的なものだけではなく、自分自身の個展のテーマにすら向けられているように見える。本人の意図かどうかに依らず、そう見えるものが必ずあってしまう、これが庄司さんの展示の面白いところだと思う。「誰かがいいと言ったら価値が化ける事がある」「生まれたくないのに生まれさせられて  「何者」かから自己をあたえられて」そう書かれたノートの切れ端が、「生まれゆく欠片たち」の隙間に配置されている。僕は価値を化けさせる「誰か」のうちのひとりだろうか。この絵たちの作者は、生まれたくない者を生まれさせた「何者か」だろうか。解体された大作「献花」は生まれたかったのだろうか、そうではなかったのだろうか。「生まれなければよかった」のではなく、「生まれたくない」ということは、まだ生まれていない、これから生まれるという苦しみが存在するということだ。しかし、すでに生まれてしまった我々は、「生まれたくない」と感じることができない(本当にそうだろうか?)。作品はどうだろう。僕がいままさに書いているこのブログ記事も、「生まれたくない」と思っているのかもしれない。僕は僕が生まれさせた(もしかすると生まれたくなかったかもしれない)作品になにかしらをあたえている。それはその作品がいったいなんであって、どこでひとの目に晒され、どこでひとの目に晒されないかを決定づける。僕ではない「誰か」がこれを「いい」と言えば、あたえられたものは変容するだろう。それは「価値」と呼ばれるものになっているかもしれない。僕自身もそうなんじゃないか。いつからか、僕は僕の作品として、僕に生まれさせられていて、「誰か」のつくった「価値」を「自己」なんだと言い張って、もしかしたらこいつは、本当は生まれたくなんかなかったんじゃないかな、なんて考えてしまう。

ㅤああ、庄司さんの作品とは関係ない話になってしまった。やっぱり庄司さんの作品を鑑賞するのは難しい。こんなにもストレートにいい絵なのに、いい絵であることの評価をさせてくれない。だから何度も足を運んでしまうんだ。