ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

絵画は融解する――展覧会「おまーじゅじゅじゅ!お前と12人のSUMMER」レポート

 そこにはオマージュがあった。そしてオマージュでないものがあった。それらの境界――あるいは境界などはじめからなかったのかもしれない――は溶け合い、互いの領域を侵犯し、目の前にはただ、裸の絵画がいくつもいくつも立ち現れていた。そして立ち現れていなかった。僕たちは通天閣のふもとに展示されているそれら、また同時に、展示されていないすべてに向き合いながら、同じ時間/空間を(非)共有していた。

 2017年8月31日から9月3日までの4日間、大阪新世界のギャラリー1616にてグループ展「おまーじゅじゅじゅ!お前と12人のSUMMER」が開かれた。出展作家は題の通り12人。主催は妹(犬飼のりを)の高校時代の先輩であるきゃらあい氏と庄司理子氏であり、その縁で何度か彼女らの展示に訪れていた僕は今回の展示に出展者として誘われた。高校・大学と美術部に所属していたため、不特定多数に作品を公開する経験はしていたが、個人としての出展はこれが初めてである。

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[図1]「おまーじゅじゅじゅ!」のDM

 

 出展作家12人は以下の通り。リンク先はツイッターアカウント。

きゃらあい

庄司理子

さめほし

・犬飼のりを

むくむくしたけもの

ツヅキエイミ

成田拓弘

前田朝帆

・羽鹿守

原 康浩

杉原仁

複素 数太郎

 大阪以外からの参加者が多く、会期中にお会いできなかった方も何人かいたが、図々しくも搬入から搬出までずっと居座ったために大半の出展者と話すことができた(だから来場者のほとんどは僕の姿を見たはずだ)。彼ら/彼女らは全員まったく異なる作風・バックグラウンドを持ち、「おまーじゅじゅじゅ!」で初めてその存在を知った表現方法(原氏のシンナードローイング等)もあった。

 「おまーじゅじゅじゅ!」のテーマはもちろん「オマージュ」である。各々がオマージュ作品をひとつ(と普段どおりに制作した作品をいくつか)出展する。オマージュ作品のキャプションにはエクスクラメーションマークのスタンプが押されているが、オマージュ元の作品は記載されていない。基本的には来場者が主催者あるいは作家本人に聞いたときのみ、それは明かされる。作品内に元ネタが書き込まれているもの、音楽好きの人間ならわかるもの、美術に明るい人間ならわかるもの、マニアックすぎて誰にもわからないもの、様々なオマージュ作品が持ち込まれた。僕の作品はビートルズのRevolver風に主催2人と妹の作風を真似たキャラクターを配置するものだった。ここには「いつまでもオマージュする側でいられると思うな」というメッセージが込められている。軽い気持ちでネタかつメタ(そしてベタ)な要素を組み入れた、決して優れたクオリティであるとは言えないようなこの絵に、じつはこの展覧会の“意義”がうまく反映されていたのではないか、と会期終了後にふと思った。

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[図2]"Bad Day Sunshine"(複素 数太郎)

 

 多くの作家は固有の作風を持つ。イラストレーター然り、ミュージシャン然り、そのアーティスト固有の作風に何かを感じることによって、鑑賞者は無数の作品の中から特定の作品を選好する。「おまーじゅじゅじゅ!」出展作家の中では特にきゃらあい氏、庄司理子氏、さめほし氏、むくけも氏がその作風に極めて強い固有性を持つと言えるだろう(リンク先で各々の作品を見ることができる)。

 ここでひとつ思考実験をしてみよう。あるアーティストが自分にかんする記憶を完全に失ってしまった。芸術というものはある程度までは身体で覚えるものである。突然なにも作れなくなる、という状態にはならないかもしれない。しかし、彼はそれまでと同じような作風を維持することができるだろうか。直観的にはかなり難しいことのように思われる。我々は作品を制作するとき、それまでの反省や成功体験に基づいて手を動かしていくはずだ。いくら技巧的なこと、思想的なことを意識の外に出そうとしても、完全に過去の影響を受けずになにかを作り上げることはできない。加えて、おそらく誰しも過去に制作した自分の作品を頭の片隅、あるいは中心に思い浮かべながら作業を進めていくのではないだろうか。だからこそ、作風は作風たり得るのではないか。

 およそなにかを表現するとき人は過去の自分自身の作品と向き合い、それを参考の対象または打倒すべきものとしていずれかの意味で“尊重”しなければならない。ここで行われていることは、本質的には自分自身へのオマージュであると言えよう。エクスクラメーションマークのスタンプはすべてのキャプションに押されているのである。すべてのアーティストは「オマージュされること」から決して逃げられない、というのがこの記事における僕の立場だ。会期中には在廊作家がお互いのオマージュ作品を制作したり、それらをそのまま物販コーナーで販売したりしていた。あの日のギャラリー1616ではあらゆる境界が融解していた。途中から元々の出展者ではない13人目(木岡氏)の作品さえ展示された。

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[図3]きゃらあい・庄司理子・犬飼のりを・複素 数太郎のドローイング合作

 

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[図4]「おまーじゅじゅじゅ!」のオマージュ(複素 数太郎)

 

 ここまで考えたところで、改めて出展作品たちの姿を想起した僕は驚いた。さめほし氏と氏の作品は、まさに「融解」したものであった(リンク先で「おまーじゅじゅじゅ!」展示作品を見ることができる)。オマージュとオマージュでないものの境界が溶け合っている今回の展にぴったりだ。

 さめほし氏は3枚の融解した女の子の絵を展示していた。そのうちの1枚は、複雑に変形して顔すらわからなくなっている。個人的にはこれが「おまーじゅじゅじゅ!」で最も好きな作品だ。原氏はNational Geographic誌をシンナーで部分的に溶かしたものを展示していた。オリジナルの挿絵や文章とそれらが溶かされた部分が混在し、よく観察してみるとその溶かしかたも様々に工夫されており、既製品である雑誌とその偶然的な棄損とそれらに注ぎ込まれた意図的な効果それぞれの境界はすべて曖昧になっていた。ついでに書き記しておくと、僕が最終日のみ物販に追加した「どろどろガールポストカード」はまったく意図せず「女の子のキャラクターが徐々に融解していく様子」を描いたものとなった。

 

 会期中、至る所で絵画は融解していた。原理的にも、象徴的にも、現実的にも。原理的にはオマージュとオマージュでないものの境界の融解/結合である。象徴的には「おまーじゅじゅじゅ!」のコンセプトの融解/拡張である。現実的にはいくつかの作品群の融解/溶解である。

 ――絵画は融解する。これは鑑賞者としての僕が「おまーじゅじゅじゅ!」から読み取ったメッセージだ。もしかすると、他の出展者にとってそれはひどく的外れなものなのかもしれない。しかし、それでいい。この記事を書いている僕はあくまでも鑑賞者であり、いつだって鑑賞者は常にひどく的外れかもしれないメッセージを受け取り続けるものなのだから。