ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

トーキョー的なものへの抵抗1

 関西、とりわけ大阪にはボケ/ツッコミというコミュニケーション救済システムが存在する。関西人はよく「話にオチを求める」と言われるが、オチのない、明確な目的のない会話よりも、むしろ「オチ」というわかりやすいゴールに向かう会話のほうがより原初的なコミュニケーション形態であると言えよう。漫談というガイド線が引かれた関西のコミュニケーションは、社会的なフィルターに弾かれて落ちこぼれていたはずのコミュニケーション貧困層(いわゆるコミュ障)を掬い上げる「救済システム」として機能している。このシステムがすべてのコミュ障を救うかといえば、もちろんそんなことはない。しかし、この“掬い上げ”がパリピコミュニケーション(party people すなわち「ノリの良い社交的な場が好きな人々」がしているようなコミュニケーション)に適応できる人間と適応できない人間のあいだにある壁を薄くしてくれることは想像に難くないだろう。

 ボケ/ツッコミの役割分担は場を強制的に喜劇へと変える。言い換えれば、関西では「喜劇」が絶対者としてコミュニケーションに介入してくる。なぜ人は(臨床的ではなく広い意味で、双極性障害境界性パーソナリティ障害“っぽい人”としての)メンヘラになるのか。その原因はおそらく、その人が認識する世界の様相と、現実世界の様相との差異があまりにも大きいことであろう。一方に自分の認識を通した世界が存在し、他方で「どうしようもなくこう在ってしまう」ような現実世界も存在し、この矛盾を解消するためにメンヘラリティが生み出される。ここにメンヘラリティとは別の調停法があるとすればどうだろう。ボケ/ツッコミの役割さえ与えられれば、すべてが強制的に喜劇化され、自分の認識する世界も現実世界も第3の「喜劇世界」に意味を書き換えられてしまう。ここにはもう、矛盾などないのではないか。

 それでもメンヘラリティを生み出してしまう者が存在する。各々に個別の複雑な事情があることは確かだが、もっと大域的に見てみると、どうも彼らには「喜劇」という絶対者を信じられない傾向、いわばニーチェ的な偏屈さがあるらしい。だから、関西には世俗的なモノに強烈な拒否反応を示すメンヘラコミュニティが多い(ただ、これはあくまでも大域的な見方であるということに注意してもらいたい)。ということは当然、世俗的なモノの極限点たるパリピコミュニケーションは極力排除される。

 東京にはボケ/ツッコミのような救済システムは無い。至る所に孤独が点在する。関西メンヘラのような偏屈さを持っていなくとも、誰でもメンヘラになり得るのだ。その中には「ノリの良い社交的な場が好きな人々」も多くいるだろう。パリピはコミュニティを作るのが得意なため、パリピコミュニケーションに適応した東京メンヘラのコミュニティは早いスピードで成長していく。彼らはインターネットで積極的に関わり合い、シャレオツなファッションとツウなミュージックの情報を交換する。それ自体は決して悪いことではないが、その陰で、パリピコミュニケーションに深刻な不適応を示す偏屈野郎がメンヘラコミュニティに入りづらくなっているのではないだろうか。実際、世俗的なモノを徹底的に嫌う東京メンヘラをインターネットで見る機会は、かなり少ない。彼らはどこにいるのだろう。ここに良くない階層性がある気がしてならない。じつは、その階層性が目に見えるモノとして現れたのがメ■ヘラ展でありメン■ラ.jpであると思って僕はネチネチとワルグチを言い続けているのだが、あまり同意は得られそうにないし、このふたつには他の問題(「メンヘラ」のブランド化とか、本当にそれでアートを通した表現ができるのかとか、単純にイタいとか)もかかわってくるので簡単に結び付けられるわけでもない。だが最近のインターネットメンヘラ界隈を見ていると、得体の知れない不安を感じるのだ。