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ひとなぐりこけし

完全な球体と屋根の上に降り積もる女の子のやわらかい死体

ソイネックスが降った街

2015年5月3日 発行『SOINEX』収録

 

 1 崩壊に至る経緯

「君がここに来るようになったのはいつ頃からだっただろうね。僕は、どうもそれが思い出せないんだ。君は覚えているかい」
 ヨシエは「どうしてそんなこと聞くの?」と不機嫌そうに聞き返してきた。本当に不機嫌そうだった。
「どうしてって、知りたいからだよ」
「どうして知りたいの?」
「知りたいという感情が湧いてきたからだよ」
「どうして知りたいという感情が湧いてきたの?」
「わからない……」
「そう。わからないの。じゃあもうそんなこと聞かないで」
 彼女は食べかけのオムライスをゴミ箱に叩き込み、勢いよく私のベッドに潜り込んだ。まだ午後八時四十分だ、寝るには早すぎる。私は急いでオムライスを半分くらい食べたが、気分が悪くなってきたので残りの半分は捨てた。
私はヨシエの隣に横たわった。ヨシエの寝顔はとても美しかった。彼女の寝息を聞いていると、精神安定剤でも誤飲したのではないかというほどに心が落ち着く。その音が頭の中でいつの間にかチェロの音色に変わり、私の心臓の鼓動はティンパニ、ベッドシーツと私の髪の摩擦音はスネアドラムとなり、心地良いクラシック音楽を奏でた。……と形容するとやり過ぎかもしれないが、この快然たるバックグラウンドミュージックが私を夢の世界へと連れ去って行くのに、そう時間はかからなかった。

 ヨシエは十七か十八くらいの女の子だ。彼女には親がいないという。いつも制服らしき物を着用していることと、よくわからない管楽器――彼女は確かホルンと呼んでいた――の入ったケースを持ち歩いていることから、どこかの高校に通っていて、吹奏楽部に所属しているのだろう。しかしそのことについては何も教えてくれない。毎日夜八時になると、ジャスコで買ったというダサいエコバッグいっぱいに食材を詰めて私の家にやってきて、夕飯を作ってくれる。スパゲッティとオムライスが交互に作られるだけなのだが、どちらも異常な量の砂糖が使われていて、半分食べるので精一杯である。食事が終わって風呂に入ると、彼女は私のベッドで寝る。まるでプログラムされているかのように毎日きっかり午後十時十五分に寝て、午前六時三十分に起き、その一時間後に家を出る。誤差は大きくても二分程度だ。ヨシエが私の家にいない間に何をしているのかを何度か聞いたことはあるのだが、どういうことかいつもはぐらかされてしまう。私の家に持ってくる食材の量や替えの下着の派手さなどから、金にはかなり余裕があるのだと考えられるが、アルバイトをしている様子はない。援助交際でもしているのだろうか。
 いつ頃からヨシエが私の家を訪れるようになったのかは全くわからない。記憶を順々に辿っていっても、いつもジー、ジーとノイズが入ってくるような感覚がして、どうしても思い出すことができない。ヨシエのことだけではなく、ヨシエと会う以前の私自身に関する記憶までも、ほとんど残っていないのである。自宅の表札からかろうじて自分の苗字が福本であることだけは判明しているが、家の中には家具一式が揃っているのみで、手掛かりになりそうなものは何ひとつ無い。ただ、いつもヨシエと寝ているベッドが自分のものであるということだけは確かだ。どういうわけか、このことは覚えている。それに、微かではあるのだが、長い間、それこそ十年以上、ヨシエと暮らしてきたかのような感覚がある。彼女にそのことを話すと、いつもきっぱりと否定されるのだが……。家賃や電気・水道・ガスの料金を払っている人間がいるはずなのだが、それが誰なのかを私は知らない。これが本当に私の家なのかも不明である。そもそも私は福本という名なのだろうか。疑問を抱えたまま時間は過ぎて行き、冬が来た。この冬が、私が記憶を失ってから何度目に訪れたものなのか、定かではない。
 
 私の家の庭に降った雪は、少女の柔らかくて白い肌のように見えた。地面にポツポツと点在する女の子の皮膚の山。皮膚、という言葉には懐かしさがあった。この単語を過去に何度も口にしていたのだろう。地面にポツポツと点在する女の子の皮膚の山。女の子の皮膚。点在する皮膚。皮膚の山。「皮膚」の部分で口が気持ち良くなる。私は目を瞑り、ピンセットで何かを挟んで引っ張る動作をした。メスで切れ目を入れ、ピンセットで挟み、引っ張って、剥がす。何だ、このイメージは……なぜ私は、こんなグロテスクなイメージに懐かしさを感じているのだ。記憶のノイズが少しずつ除去されていくような気がした。
「何してるの?」
 何か思い出しそうになったが、それを妨害するようにヨシエが話しかけてきた。もう少しだったのに。
「もうすぐ七時半だよ。支度しなくていいのかい?」
「ねえ、何をしているの?」
「庭を見ているんだよ。ただ庭を見ているだけ。それより今日はまだ外に出ないの? いつもならこの時間には」
「そんなことはどうでもいいのよ」
 彼女は私の言葉を遮って言った。
「あまり家の外のことを考えないほうがいいわ。ねえ、今日は私、ずっと家にいるからさ、添い寝してよ。添い寝」
「添い寝って何だよ……君、もう二十歳も近いだろう? 恥ずかしくないのかい」
「たまにはいいでしょ。いつもお世話してあげてるんだからさ、今日くらい私のお願い、聞いてよね」
 わかったよ、と言いながら私は寝室ではなく、バスルームへと向かった。
「その前にシャワーを浴びさせてくれ。昨日は時間が無くて風呂に入れなかったんだ」
 断っておかねばならぬが、別にセックスをするためにシャワーを浴びるわけではない。ヨシエと性的な行為をしたことは一度も無いし、これからも無いだろう。
 バスルームにはこの家で唯一の鏡が設置されている。私は鏡の前に立った。鏡の奥から三十代後半くらいの身長の低い痩せた男がこちらをじっと見ている。えらがズンと張っていて、頬骨が突き出ている。目は細くて、開いているのか閉じているのか判別できない。これが私の顔か。鏡を見るたびに違った印象を受ける。少なくとも昨日の夜見た時はこんなに小汚い男は映っていなかった。もっと整った顔立ちだったような気もするし、もう少し老けていたような気もする。今映っているこいつが十代の少女と添い寝する様を想像すると、かなり気持ち悪い。昭和の安いアダルトビデオみたいじゃないか。
 少し長めにシャワーを浴びてから寝室へと来た私をヨシエは睨みつけ、遅い、と怒鳴った。私はごめんごめん、と軽く謝りながらベッドに入った。すぐにヨシエがズモモ、と潜り込んできた。ズモモ、という音が鳴ったわけではなく、ヨシエがズモモ、という声を出したのである。
「ははは、ズモモ、って何だよ」
「効果音よ。可愛いでしょ」
「うん、可愛い」
 私とヨシエの身体はいつもより強く密着している。十代の美少女とこんなにも密着して添い寝しているというのに、性的な感情は一切湧いてこない。ただただ落ち着く。これ以上ないほどの安らかな時間だ。油断したら一瞬で眠りに落ちてしまいそうだが、しっかりと目を開いておかないと、ヨシエのこの素晴らしく整った顔をじっと観察することはできない。よく耳を澄ましていないと、ヨシエの繊細な吐息の音を、愛くるしい心音を、聞くことはできない。それはとても勿体ないことだ。
「ねえ、今、どんなこと考えてる? 卑猥なこと?」と彼女は満面の笑みで聞いてきた。
「残念だけどね、君が期待しているようなことは考えちゃいないよ」
 絶対に性行為には持ち込まないゾ、と私は心に決めていた。どこかにこの娘とは決してそういうことをしてはいけないという意識があった。この娘とは、絶対にしてはいけない。男女の関係になってしまうと様々な煩わしい問題が発生するからとか、そういうことではなく、どうしてもヨシエだけは駄目だ、手を出してはいけない、手を出せば、私の中の何かが崩れてしまう。そんな気がした。
「君がもっと大きくなったら……そうだね、あと三年くらいしたら、もしかしたら、ね」
「もしかしたら?」
「もしかしたら、そういうことも考えるかもね」
「うん……」
 ヨシエは少し悲しげな顔でモゾモゾと掛布団の奥へと沈んでいった。どこかで、記憶を失うより前に、この表情を確かに見たことがある。いつどこで見たのだろう。ダメだ、思い出せない。そうだ、私は何か、何か取り返しのつかないことをしてしまって……何だったかはわからないが……。
 しばらく沈黙が続き、次に私が言葉を発した時にはもう、太陽は金色の海に沈もうとしていた。
「これは現実なんだろうか」
「現実なんてない。気にしちゃいけないよ。さあ、目を閉じて。何かを見ると、誤解してしまうから」
 誤解なんてしないよ、とつぶやいて、私は目を閉じた。私にはヨシエが何を言っているのかがさっぱり理解できなかった。ただ、どこからか言いようのない恐怖が湧いてきて、何も考えないようにするほかなかった。ヨシエの吐息が一定のリズムで私のノドボトケに当たる。ヨシエの細い髪の毛の先が、私の固いゴツゴツとした顎をチクチクと刺激する。誤解なんてしない。これは現実なんかじゃない。これは、私の知っている世界の感触とは、違う。私の、私の知っている世界は……。

 

 

 目が覚めると、ヨシエが死んでいた。

 少し眠り、もう一度目を開ける。
 相変わらずヨシエは死んでいた。

 

 今度こそはと、しばらく――二時間は目を瞑っていたはずであるが――眠り、目を開けた。まだ、ヨシエは死んでいた。
 ヨシエの口の中に指を入れた。どんどんと、奥へ、奥へ。指先が口蓋垂をタッチし、そのままヌメヌメとした冷たい道を進んでいく。指の腹を通して、人間の喉の形状の情報が伝わってくる。私はその柔らかい肉の壁面に爪を立て、少しばかり肉を掻っ攫ってみた。全く反応が無い。
 眼球に触れる。駄目だ、ピクリとも動かない。刺激が足りないのかもしれない。もう少し強く押してやれば……もっとだ、まだ……おかしい。さっきまで動いてたじゃないか。おかしい。こんなはずがない。これは違う、違うんだ。
 眼球に薬指がズンズンと食い込んでいき、気が付くと私の指の第二関節は既にヨシエの右目の中にあった。私は、嘔吐した。吐瀉物がヨシエの真っ白な肌を一瞬にして形容し難い醜い色に変え、爽やかなシャンプーの香りはこの上なく不愉快な悪臭によって完全に掻き消されてしまった。
しまった、なんてことだ! ああ、ごめんよ、ヨシエ、すぐに綺麗にしてあげよう。こんなにも汚い物を……苦しいだろう、本当にごめんよ、ヨシエ……。
 台所にあった乾いたゴワゴワのタオルで、ヨシエの身体から汚物を拭き取った。それでも十分に臭いが残っていたので、ヨシエの細い足首を掴んで引き摺り、バスルームへと運んだ。日頃全く運動をしていないせいかなかなか手間取った。廊下の角を曲がる時にヨシエの頭を壁にぶつけ、彼女の首は異常な方向に捻じ曲がってしまった。バスルームの扉に引っ掛かっていたヨシエの腕を強く引っ張ると、ポキリと可愛い音を立てて折れた。廊下との摩擦によって傷だらけになった小さな背中に、浴槽に張ってあった冷水をかけた。黒く濁った血液と橙色の汚物がらせん状になって排水溝に流れ込む。目が回る。意識が遠のきそうだ。私はもう一度嘔吐した。

 リビングの真ん中に布団を配置し、その上にヨシエの死体を置いた。
殺風景な部屋にこの所々変形した死体はとてもよく調和し、まるで今日のために、ここにあるべき家具が廃棄されたのではないか、と思うほどである。その洗練された空間の美しさに魅了され、朝日が昇るまで私は動くことができなかった。窓に光が差し込むと同時に身体的かつ精神的な疲労により立っていることができなくなり、ゆるやかに力が抜け、その場に倒れ込み、意識を失った。

 

 ヨシエが青白い肉の塊と化してから五日が経った。時間が過ぎるにつれ脳裏に刻まれた光景は曖昧な映像からリアルな記憶へと連続的に変化し、ヨシエを失った悲しみが私の心の中を次第に支配してきている。一日に数回、ひょっとするとあれは全部幻覚だったのではないか、などと考え、救いを求めようとするものの、少し視線を動かすと、制服を着た少女の死体が「全部、本当のことなのよ」と私に語りかけてくる。その度に私の記憶はより鮮明――既にこれ以上ないほど、目の前で起きていることなのかと錯覚するくらいクリアであるにも関わらず――になり、思考のキャパシティを超えた過剰な情報量によって頭の中がメチャクチャに掻き乱され、声が枯れるまで彼女の名を叫ぶこと以外には何もできなくなった。

 

 芽が生えている。私のかすれた声が、私と少女の死体だけが存在する直方体の箱の中で、ほんの一瞬だけ響いた。芽が顔を出しているのだ、ヨシエの口の中から。レモンイエローのような、エメラルドグリーンのような、いや、アクアブルーに似ているような気もする、とにかく見たことの無い奇妙な、なんとも形容しようのない暴力的な色をした芽だ。顔を近づけてみると、微かに甘い香りがした。
この香りは、私の記憶の中に既に存在する! いつどこで、なのかは思い出せないが、しかし、私は以前にこの香りを嗅いでいる!
 私はヨシエの身体に覆い被さっている布団の中に潜り込み、必死でその香りを吸い込んだ。スーハー、スーハー。思い出せ。私は何者だ。ここは誰の家なんだ。芽が発する甘い香りと死臭の入り混じった不愉快な冷たい空気が肺を満たす。ヨシエの死体に抱き付き、私の額と死体の鼻筋とがぶつかるまで顔を接近させ、思いきり息を吸い込んだ。

 

 ヨシエの口から生えた芽は、その姿を現してから三日目には二メートルに達した。ほんの少し前まで彼女の死体を見ることは私に大きなストレスを与えたのだが、今では芽の成長を確認する度に幸福感が得られるようになった。私の関心の対象は、既に「ヨシエの死体」から「ヨシエの死体から生えた芽」に移っていた。私はヨシエの死体の隣に横たわってみた。ヨシエの顔は生前と変わらずとても美しい。しかしもうそんなことはどうでもいい。さあ、成長するんだ。もっと高く。どこまでも。私は芽に念じ続けた。
なぜ私は芽に対してこんなにも興味を持っているのだろう。私が記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれない、それは確かなことだが、それにしても、こうまで、何時間も、何時間も観察しているのだ? まるで研究者みたいに。
――研究者?
 研究者、そう、研究者だ。私はサイエンティストだ。そんな大事なことをなぜ私は、今の今まで忘れていたのだ……私は植物学の、いや生物学か? とにかく、研究をしていて、それで……。
 夥しい記憶の欠片が私の脳髄を掻き乱し、神経を切断し、血管に突き刺さる。頭の中に過去に見た映像の断片がパッ、パッと映し出される度に、鋭い痛みが走った。数分ほどして、なんとか、ほんの少しだけ、激痛によって閉じずにはいられなかった目をようやく開けることができたのだが、私の瞳に映ったのは、ひどく醜く、この世のものとは思えないような、異常な姿に変わり果てたヨシエの死体であった。胴体は今にもはち切れそうなほど膨れ上がり、顔は緑色とも灰色ともつかぬ奇妙な色に変色し、頭髪はすっかり全部抜け落ち、肛門のあたりから数本の茎が伸びていて、それらには狂気的なデザインのおぞましい葉がびっしりとくっついていた。
 その時、私に平常通りの判断力があったならば、私はこの家から一目散に走って逃げていたに違いないのだが、あまりの頭痛に冷静さと行動の意欲を奪われていたのだろう。この禍々しい怪物を目の前にしても、私は一歩たりともその場を動きはしなかった。パンパンに張りつめたその身体には、内容物を抑え込んでいられる限界が近づいているらしく、その表面はいつ破れてもおかしくないように見えた。
 この吐き気を催すような異形の物体から、どれほど恐ろしいものが飛び出してくるのか、私は既に知っていた。まさに、まさにこれこそが、私の許されざる研究の主たる対象であり、あらゆる恐怖の根源である、あのソイネックスの生み出した忌まわしき生命と物質の循環そのものなのだ! ああ、何ということだろう、私はこのはしたない好奇心と下らない虚栄心に敗北し、決して触れてはならぬものに触れてしまった。もう後戻りはできない、何もかも遅すぎたのである。
 ヨシエの死体――かつての美しい姿の面影は一切無く、今や着ている服からなんとかこれが彼女であることが推測できるのみであるが――は不気味な低音を伴って腹部から破れ始め、中から樹木状のとしか言いようのない得体の知れぬ生物を出現させた。そいつは恐るべき早さで成長し、見る見るうちにこの私と異形の怪物のいる部屋の半分の体積を占めるほどまでに、無数の木の根のような形状の器官を伸ばした。このままでは、あと数分もすれば押しつぶされてしまう、早くここを出なければ……足が、駄目だ、足が、足が動かない! 足が、あの気味の悪い根に掴まれている! くそ、こいつめ、この邪悪な化け物め、放せ! このやろう、捩じ切ってやる!
 
 私の家が異形の生物の急激な成長になす術も無く、ガラガラと崩れ落ちていく。すんでのところで脱出した私は、家の前の道路――ここへ出てきたのは何年ぶりか、と感じるほどに、長い間あの敷地内からは出たことが無い――で、カブトムシの幼虫のような格好でみすぼらしく蠢いていた。私は間一髪であの怪物の生温かいヌメヌメとした根のような器官を捩じ切り、この建物の崩壊に巻き込まれずに済んだ。しばらくうずくまっていると、サイレンの音が聞こえてきた。

 かくして、私の愚かなる実験は終わりを迎えた。だが、その代償はあまりにも大きかった。


 2 彼の死に関する簡単な記録

 行方不明とされていた都立生物学研究所研究員の福本正彦が発見されてから、三週間が経過した。最初の一週間で彼は、二つの狂気じみた内容の論文と、唯一の肉親である娘へ宛てた手紙を書きあげ、それからしばらくは怯えたような様子で「ジンクオーウマティ、助けてくれ、ジンクオーウマティ、助けてくれ」と繰り返すのみであった。論文を読んだ同僚達の勧めで彼は先週から精神科病棟へ入ることとなったのであるが、何度も自殺未遂をするために入院五日目には手足をベッドに縛り付けられ、舌を噛まぬよう布きれを口に巻かれてしまった。
 それから二日もすると、彼はついに言葉を発する機能を失ってしまった。何かを伝えようと必死に口をパクパクと動かすのだが、ただ呻き声が漏れるだけだった。筆談を試みようと鉛筆と紙を渡しても、解読のできない奇妙な文字を書くことしかできなかった。しかしそれは何とも不可解なことに、どうやらある規則性に従った類似性のある文字であったのだが、結局、どの専門家にあたってもこの文字が何を意味するのかを読み解くことはできず、ただ気のふれた天才の創作物だということで片づけられた。

 娘の芳江が見舞いに来るようになってからは、面会時間だけは拘束を解かれるようになったのであるが、手首についた痕を彼女が不審に思い看護婦を問い詰めたことがきっかけで正彦は病棟内での自由を獲得した。また、その後自殺を計画するような素振りも無く、次第に意味の通じる言葉を発するようになったので、薬の量も大幅に減らされ、ほとんど普通の入院患者と同等の正常な生活を送っている。

 

 福本芳江との何度目かの面会の後、福本正彦は窓ガラスを素手で割り、その破片を首に突き刺し、自殺した。


 3 ある雑誌より

 彼の残した論文二つのうち、後に書かれたほうはあまりにも支離滅裂な内容で、とても読めたものではなかった。最初に書かれたものは学術的な価値こそ全く無いと言っても良いほどであるが、何とか文章としては成立しており、サイエンス・フィクションの設定か何かなのだと思えば興味を示すような物好きも全くいないこともないだろう、というような面白さもあるので、ここに福本正彦氏が発見直後に書いた論文から適当と思われる箇所を抜き出して簡潔に掲載する。

「これは私の十三年に渡るソイネックスに関する研究の報告である。人類に深刻な脅威をもたらす恐るべきこの生命体について調査し、その生態を世間に広く認知させ、正しい対策が成されるようにすることが我々の義務である、と私は考える。私を閉鎖病棟に追いやった同僚たちはこの事実が世間に知れ渡ることとなるのを過剰に恐れているが、今すぐにでも全人類が団結してこの脅威に立ち向かっていかなければ、遠くない未来にソイネックスがこの地球の新たな支配者となってしまう。もう時間は残されていない。
 はじめて人類がソイネックスの存在に気付いたのは一九四八年四月七日、ロンドンのメリルボーン駅そばで、当時弁護士であったジョージ・セイネクス氏の事務所が破壊された事件においてである。当初セイネクス氏の極めて空想的な証言は誰にも受け入れられなかったのだが、崩れた事務所から彼が見たという未知の生命体のものと思われる触手状の器官が発見されたことにより、この謎の生物に関する捜査が開始されることと相成った。SOINEX(ソイネックス)という名称の由来は、最初に確認された被害者セイネクス氏の姓である」

「一九七〇年代、ソイネックスによるものと思われる建造物破壊はピークを迎え、その被害件数は四五三件にも上った。この時代の西欧諸国による活発な研究により、ソイネックスが地球上で生まれた生物である可能性が限りなく低いこと、人間の記憶を何らかの手段で取り込み、栄養源としているらしいこと、巨大な姿に成長し、破裂することで胞子のようなものを飛ばし、繁殖していることがわかった」
「一九六〇年代後半、ソイネックスによる被害件数は徐々に減少していった。私はこれが一九七〇年代に起きた大発生の前兆だったのではないかと考えている。そして今、ソイネックスたちの活動は明示的に沈静している」

「彼らの繁殖はこういった過程で行われる。親世代の個体が撒き散らした胞子のうちの何割かが、人間の住む家に入り込み、床ないし壁に付着する。約二時間で胞子は人間ほどの大きさに成長するのであるが、驚くべきことに、この時ソイネックスは寄生した家の住人の親しい人物にそっくりな姿かたちをしているのである。ソイネックスの表皮から分泌される幻覚性の物質を吸引することで大脳皮質にダメージを受け、寄生された住人はこの生命体の成長に関する記憶、また個人差はあるが、少なくともソイネックスが擬態している人物のこと、更にダメージが深刻な場合は自分についての記憶を一切忘れてしまう。そうしてソイネックスは来たるべき成長の時を待ち、人間社会に溶け込む。数年の後、本体を突き破るようにして体内の触手状器官を急成長させ、家を破壊し、ごく短時間のうちに爆発、十六個の胞子を約一キロメートル離れた場所まで飛ばす」

「この生物の人間態を我々ホモ・サピエンスと見分ける方法がひとつだけ存在する。多くのソイネックスには笑顔をつくる機能が備わっていないため、無理に笑っているように見せようとするせいで不自然な表情になる、ということがしばしば起こる。口角を異常なほど上げ、その状態を保持するために下唇を噛み締めるのだ。このような異様な笑い方をしているにも関わらず、ソイネックスに関する知識の無い人間はなかなかこの異常性に気付くことができないと、アメリカのソイネックス研究所は報告している」

「以上が、私が現時点で報告することのできる悪しき生命体ソイネックスに関する情報の全てである。
 この宇宙は人類の未だ知らぬ恐怖で満ち溢れている。しかし、我々が未知の脅威について探求を続け、安全を保つためにどう行動すれば良いのかよく考えることで、これらの怪異から身を守ることは十分に可能だ。いずれ訪れる大発生に備え、我々はこれからもソイネックスについての研究を続けなければならない」


 4 ソイネックスの影

 意思疎通の機能を失い、強い精神的なショックによって身体の弱り切った私にとって、愛する娘が面会に来てくれる時だけが心休まる時間であった。芳江はこのろくでなしの父親のために週五日あったアルバイトを三日に減らし、決まった曜日の同じ時間に会いに来てくれる。何と美しい慈悲の心だろう、研究に没頭し、ろくに家にも帰らず、妻の葬儀でさえ論文執筆を理由に欠席した卑劣極まりない男を、この女神は救ってくれたのだ。彼女がいなければ、私はとうの昔に気が狂い、間違いなく死んでいただろう。
 私と同じ過ちを繰り返さないためにも、今まで十分に愛情を注いでやれなかった償いをするためにも、私はどうしても娘にこの恐るべき事件の真相を伝え、ソイネックスの悪夢から身を守ることができるだけの知恵を与えてやらねばならない! どうか、どうかほんの少しの間だけでも、明瞭に言葉を発する能力を私に返してはくれないか! いくら強く念じても私のすっかり疲弊して狂ってしまった脳が言語能力を取り戻すことは無く、ただただウーウーと意味を持たない低い呻き声だけが腹の底から鳴り響く。
 「お父さん、紹介したい人がいるの」と、芳江は病室の入り口の方へ向かい、コンコンとその華奢な拳で扉を叩いて合図し、のっぽな二十五歳くらいの小綺麗な格好をした男をこの空間に招き入れた。
「この人ね、邦彦さんっていうんだけど……」
 彼女の背後にいた男の顔に浮かんでいたのは、あのおぞましき邪悪なソイネックス特有の、下唇を強く噛み締めながら口角を目一杯上げる、不気味な笑みだったのだ!