インターネット大倫理文学第3巻寄稿者募集

 9月9日(日)の第六回文学フリマ大阪で青本舎からインターネット大倫理文学第3巻『インターネットの神様』を発行します。第1巻『グッバイグーグルアイ』、第2巻『問題のある子』に引き続き、掲載作品の募集を行います。皆様、奮ってご応募ください。 @book_blue_book または僕にDMでお願いします。

 小説、詩、短歌、エッセイ、学術論文、イラスト、その他だいたいなんでもOKです。表紙のみカラー、紙面はモノトーンとなります。サイズはA5+上下左右ヌリタシ3mmです。最終稿は8月中旬頃まで。インターネット上で先に発表されている作品は不可ですが、過去に他誌で掲載されていて現在入手不可能な作品の再掲載は(そちら側で問題がなければ)可能です。

 第3巻のテーマは「インターネット」と「救済」ですが、必ずしもこれに沿っていなければならないということもありません。それっぽいのだとありがたいです。タイトルは仮に『インターネットの神様』としていますが確定ではありません。

 

 第1巻および第2巻は青本舎ショップから購入することができます。

すべてを終わらせる2万字

 私の安否情報のスクショが出回っているらしい。ここまで1か月以上かかった。狭苦しい鍵アカウントから、ようやく私の“本来の肉体”であるところの @Fukuso_Sutaro に戻ってくることができた。ちょうどこの記事が完成したこの日にだ。なんとタイミングの良いことか! 私がインターネットの海の奥底に息を潜めていたのは、私の身の安全を確保するため、そしてこの記事を完成させるためである。

 昨日まで、私は“複素数太郎”であることをやめていた。“複素数太郎”はたしかに死んでいたのだ。ごく一部の安否を隠し通せないであろう人々には「現実世界にやばいやつが干渉してきそうなので、もし死亡説など出ても公然と否定するようなことはしないでください」とお願いした。オープンシェアハウスなどの人が多く集まる場所では毎回このアナウンスをしていた。“お願い”の射程範囲の人々は3桁にものぼった。にもかかわらず、少なくとも現実世界経由でこの情報が漏れることはほとんどなかった。彼らには不要な負担をかけてしまって本当に申し訳ないと思っている。緊急事態ゆえ、諸々の業務連絡まで断ち、広範囲に多大なるご迷惑をおかけした。この場を借りてお詫びいたします。すみません。今回の記事公開にあたって、これがあまりに詳細である故、確実に多くの人々を巻き込むことになるだろう。このことも先にお詫びしておかなければならない。本当に申し訳ない。

 

・2月6日からいままでのこと(時系列順)

 展示作品に使う音楽を用意するためにマルチトラックレコーダーを購入し、LOLIPELOPOP名義でSoundCloudに楽曲を投稿した。そんなに手の込んだものでもないが、暇があれば聴いてみてほしい。

 京都で行われていた展覧会で立体作品を展示した。穴という穴にコードを接続されたあかちゃんの頭が光る台の上で回転し、付属のヘッドフォンでLOLIPELOPOP名義の楽曲を聴くことができる、というものだ。ここから見ることができる。

 関東支部のメンバー(べとりん氏)がメンヘラ.jpとの協力関係を京都に持ち込もうとしたことへの抗議として抜けていたサークルクラッシュ同好会へ久々に復帰した。関東支部のメンバーがLINEで「複素数太郎って本当に死んだの?」と聞いていたが、誰も答えずに流されてしまった。

 第六回文学フリマ大阪に出店申込をした。9月9日(日)開催。既刊2冊と新刊2冊(予定)を用意して待ってます。委託も受け付けています。昨年の反省(手伝いに来てくれた人が存在するスペースがない)から2ブース取っているので出店料を少し援助していただけるとありがたいです。厳しければしなくても大丈夫です。

 あと、3月23日に23歳の誕生日を迎えるので祝ってください。

 

 これから、私がインターネットの人間たちにいままで何をされてきたかを思いつく限り挙げてみようと思う。この記事全体を通して、誰も言い逃れできないようなるべく詳細な証拠を用意した。その中には私への悪印象を誘発しかねないものも多数含まれているが、公平を期すためにこれらも含めることにした。他にも思いつくものがある読者はぜひ私に送ってほしい。私が何をされたのか正確に把握するためにはリンク先をすべて読むことを推奨する。註釈も極めて重要であるから、読み飛ばさないように。確実に言えることは、私は数年間に渡って複数の人間から悪質な犯罪被害に遭い続けている、ということだ。いままで大目に見てきたが、もう見逃しておくわけにはいかないレベルまでエスカレートしてしまっている。それらについてもここに書いておこう。

 ※この記事はいつでも公開できるよう2月から書き始めたので、公開時には情報が最新でない可能性がある。

 

・“脅迫”について

 小山*1は私が2016年にメンヘラ.jpの脆弱性 攻撃対象領域(Attack Surface)を指摘したツイート(フォロワーからの指摘により訂正)を抜粋して「犯行予告だ」「威力業務妨害だ」などと言い、私の所属研究室への抗議を匂わせるという行為を複数回行った。このツイートはホワセプ*2が「メンヘラ.jpが消失したら面白い」とたびたびツイートしていた*3ような流れで(私自身もあまり上品ではなかったと少し反省してはいるが)指摘してみただけである。穴を見つけたら指摘せずにはいられないのがいわゆる理系の性ではないだろうか。「自分が実行する」などとは一言も言っておらず、また、それを匂わせるような文言もツイートしていない。単純に脆弱性があること攻撃対象領域に言及した、それだけのことだ。個人に対して公にそのような指摘をするのはむしろ危険であり、さすがに憚られるが、小山は起業家を名乗りながらメンヘラ.jpを運営している。リスク管理に寄与したのだからむしろ感謝してほしい。これは少し悪意のありそうな例だが、「A社はBを突けば良さそう」と発言しただけで犯行予告や威力業務妨害(業務なのか?)などになるのか。そんなふざけた話はないだろう。彼は営利団体の代表という自覚があるのだろうか。でっちあげた“犯行予告”を理由に現実世界への攻撃の意思表示をするのであれば、これは明確に“脅迫”である。

 同じ日に借金玉も私の「“アメリカの自閉症当事者団体は採用しているが、あなた方の活動理念には反する部分を持つ”ニューロダイバーシティ運動を日本に持ち込むつもりである」という宣言に対して「恫喝だ」とレッテル張りしていた。ニューロダイバーシティおよび治療文化批判*4世界的に見ればべつにおかしな考え方ではない、ということは、ググれば3秒でわかる。それを日本の支援団体にも積極的に導入しようというだけのことが、恫喝になる理由がまったくわからない。なぜ彼らは、他人の言動を歪曲して広めてまで自分と異なる意見を封殺しようとするのだろうか。私にはまったくそのモチベーションが理解できない。誰かが「21世紀は誠実に信念を貫く人間の時代」と言って馬鹿にされまくっていたが、誠実さは重要だ。世界が誠実さで覆われることを切に願う。そういえば借金玉は頭に血が上ると「情報のリークがあったので覚悟しろ」「アウトローな友人を連れて訪問する」というふうに相手を脅迫する癖があるけれども、これは本当にやめたほうがいいと思う。私に対するそれは周囲の人間に指摘されてさすがに消したようだが、Manabe氏に対するそれ*5はまだ残っている。彼はインターネットでのやりとりを勝ち負けなどという尺度で認識しているようだが、それに乗っかってコメントするとしてもこれは悪手でしかないと言わざるを得ない。これは自戒も込めてだが、三日三晩寝ずに議論しようとするのもやめよう。私も借金玉が暴言8割・脅迫1割・不明1割フェーズに入ってもなおほとんど寝ずにAmazonから無限に届きプリンタから際限なく吐き出される参考文献の山に埋もれて数十人からのリプライを誠実に捌いていた(本当にキツいので一部漏れがあったとかいう苦情はやめてくれ)が、人間の身体はそういう動きに対応していないということがよくわかった。渋谷で能登だでぃ子らにこの状況を「神話」と表現された。

 参考文献と言えば、私が借金玉に自分の主張のバックグラウンドを説明するためにいくつか論文を紹介したところ、彼は当然のマナーとしてのその行為を「持論を特権化するアカデミズム」であると退け、「発達障害者だから、もう学者先生の高尚な議論につきあってらんないんだよ」「障害の最前線の知識は僕の方が桁が二つ上だな、冷静に考えると」などと言い放った。この応答には批判すべき点がふたつある。ひとつは、彼が「障害」というあくまでも医学的あるいは社会科学的であるような概念を利用して金を稼いでいる人間であるにもかかわらず、それら(医学・社会科学)を蔑ろにするような発言を公然としていることだ。少し彼を弁護しておくと、これは頭に血が上ってつい口が滑ってしまっただけという可能性が高い*6。借金玉自身の言葉を信じるならば、彼は最終的には文献を読む男である。デリダの件でも反省したと言っている。そのことについては信用しよう。だが、もうひとつの点については弁護のしようがない。彼はあたかも「学者先生の高尚な議論」が「障害の最前線」から乖離したものであるかのように語っているが、この分野の研究者に対してあまりにも失礼ではないか。論文の著者はわざわざ何か月も、場合によっては何年もかけて調査・実験・考察し、机上の空論を学術誌に投稿しているのだろうか。査読者はさらに何か月もかけてそれらを読み、赤線を引き、掲載の可否を決定している。これらのプロセスは何のために行われているのだろうか。個人が蓄積できる知識・経験はごくわずかである。より良い道を選ぶには、より多くの試行錯誤が重要だ。しかし、失敗には必ず被害が伴う。人の命や権利など、慎重さが求められる要素が絡む“障害”まわりの問題系において、この失敗は容易に深刻な結果に繋がり得るのだ。失敗を減らすにはどうすればいいか。試行錯誤の過程で失われるものを減らすために我々がすべきことは何か。それは、知識・経験の膨大な蓄積である先行研究を参照(し、同時に批判)することである。人の命や権利がかかっているような活動を「障害者の自由意思を否定することに一切問題を感じない」という立場の借金玉が「地べたで足掻いて」やっていくことに私は強い不安を感じる。

 また、ホワセプによると、小山がインターネット上でばら撒かれた不確かなソースに基づく(たとえ不確かでなくとも重大な問題であるが)私のゴシップを京都大学に告発しようと考えていたらしい。面白がって弁護士費用のうち15万円を出した、と渋谷でホワセプと会った時に伝えられた。以前から小山はこのゴシップを複数回拡散している*7のだが、これは端的に名誉棄損である。しかもそれを所属機関に告発しようというのだ。このような卑劣な行為を許してはならない。

 

 ツイッターでこの日私が「逆レイプ」(逆って何? レイプはレイプであって行為者の性別は関係ないだろう)されていたという噂が流れているが、このことについてもついでに説明しておこう。この記事を読んで私がそこまで精神的ショックを受けていないと感じる読者もいるかもしれないが、事件後しばらく、私はメンクリに行くことすらままならない状態まで追い込まれている(まだ行けていない)。

 2月5日、私は何を血迷ったか、ホワセプと会ってしまった。てっきり2人きりかと思って渋谷に向かったところ、ホワセプの他に能登だでぃ子、アークリスプ、ボゴソーター、ロンプラが一緒に来ていた(後に糸柳氏も合流した)。6人で飲食店に入り、私はホワセプとロンプラに挟まれた。ホワセプは私に「お前が借金玉に負けたのは言葉に重みが無いからだ。子を30人作った男の言葉には重みがある。ここにお前の子を孕みたい女がいる。子を作り、借金玉に勝て」と言った。ロンプラは私に密着し、首筋などに無理矢理キスをし、耳を攻め、股間を物色しながら「彼女何人いるの?」「私じゃだめ?」などと囁いてきた。人によっては「羨ましい」などと思うかもしれないが、私はものすごく嫌だったし、必死に拒絶していた。あの日、私が純然たる被害者であったということは、アークリスプに聞けばすぐにわかる。ホワセプは私がミスiD出場者を何人も食っているだとか性行為すると宣伝してくれるだとか食った女に自分がデザインしたグッズを着用させているだとか言っているが、これはデマである。洒落にならないほど多くの人が信じてしまっているのでかなり迷惑している。やむを得ず顔を鷲掴みにして抵抗したが、非力な私は腕力で負けてしまった。あまりにも店に迷惑をかけ過ぎではないか。「すぐ近くに器具が売っている。ロンプラにお前が射精管理されるかアークリスプが射精管理されるか選べ」とも言われた。私は酒に弱いので一滴たりとも飲まないつもりだったが、酒以外を注文すると勝手にキャンセルされて無理矢理酒を飲まされた。数時間におよぶ抵抗の末、ようやくロンプラが帰宅し、私は解放された。と思ったが、ホワセプが「8000円支払わないと食い逃げで通報する」などと言って腕を掴むので帰れなくなった。たしか割り勘で高く見積もって5000円ほどだった。私が「21世紀は誠実に信念を貫く人間の時代だ」と言いながら諸々の行為に抗議すると、糸柳氏は「じゃあなんでインターネットの悪い連中と関わってるんだよ」「山でそんな甘いこと言ってたら死ぬぞ」とものすごい剣幕で激怒してきた。糸柳氏は終始私に「山だったら死ぬぞ」と説教し続けた。

 さすがに本当に8000円を払うことはしなかったが、あの場は完全なる無秩序だった。ある種の大学生だった人間にとって飲食とはそもそもこういうものなのかもしれない。あの日も慶應関係者が複数いたし。

 

 この日、複素数太郎は死んだ。私は @Fukuso_Sutaro でツイートボタンを押すことができなくなったのだ。理由はふたつ。先述の「ネット上の(“性的”と受け取られかねない)ゴシップを所属機関に知られる恐怖」および「インターネットの女への恐怖」だ。ただ、メインアカウントはほとんどリア垢として機能しているため、私のツイッターアカウントを知っている院生・教員らにはあらゆることが把握されてしまっている。他大の教員にまでハンドルネームで呼ばれている。実はもう割とアウトなんじゃないかと思う。

 

・小山がツイキャスで私について喋った内容について

 小山は 2月2日のツイキャスでホワセプの挑発に乗り私に言及した。あたかも私に配慮しているかのようなポーズを取っているが、その内容はたんなる(自覚的か無自覚なのかは知らないが)事実の歪曲と憶測による中傷である。彼の認知にはAT教団兵氏*8が指摘するように大きな問題がある。小山の発言に辻褄の合わない部分があることは借金玉も認めている。商売仲間にまで言われてしまうということは、そういうことなのだろう。先述の私のゴシップについて、小山は私が「相手の女性はホワセプが送り込んだ人間である」と主張しているなどという虚偽の情報をもとに「これは妄想であり、症状である」とした*9。私は「このゴシップを広めたのはホワセプが送り込んだ女である」と言ったのであって、これは妄想でもなんでもない(後述)。小山は私を罵倒するためならいくらでも嘘をつくのだ。少なくともこの一点においては、小山がどう弁明しようと、どれだけアクロバティックに辻褄合わせをしようと、彼が嘘をついたうえで私を中傷したという客観的な証拠が揃っている。違法性は明らかである。

 加えて、小山は私が怒号飛び交う厳しい理学研究科に適応できないからインターネットに張り付いているんじゃないかとか言っていたが、京大はそもそも放任教育と言われている。少なくとも私はそんな悲惨な光景を見たことがない。指導教官にも「修論にかんしてはそこまで心配していない」と言われている。出張費もけっこう使っているし、公の場で発表もする。学生の課題を採点したり講義資料の作成を手伝ったりもしている。つまり、普通に数学専攻の院生としての生活を送っている。大学に所属したこともないのに憶測でデタラメを言うのはやめてほしい。

 

 関係者にとっては好ましくないことだと思う。しかし、このままでは歪曲された告発だけがいつまでも残ってしまうので、ここに当事者の言葉を書き残しておくことをご容赦いただきたい。ホワセプは複素数太郎と名乗って私の知らない人間とLINE通話をするという悪質なイタズラをしていたらしいのだが、その時に「複素数太郎と結婚したい」などと言うやつがいたので紹介した(ホワセプ談)のだという。少し前までギャルソニーと名乗っていた。最初は面白いやつだと思って好意的に接していたが、あまりにも異常なムーブをしてくれて、生活がメチャクチャになり、なんやかんやあって1年ほどかけて離れることに成功した。

 昨年夏、私は友人Yから死の計画を持ち掛けられた。彼女は受験生だったが、私なんかよりもずっと大人びていた*10。けっして恋愛関係などではないが、大切な友人であることは確かだ。彼女は賢い。どれだけ生きることのよさを説いたところで、それが見せかけ、欺瞞、FAKEであることなど一瞬で見抜かれてしまうだろう。私は嘘がまったくつけない。私自身のひどく陰鬱な人生における体験しか語ることができないのだ。それが彼女を説得できるようなものでないことはわかりきっていた。尊敬する友人の決意を踏みにじるようなこともできなかった。彼女を「判断能力のない未成年」*11などと形容するのはあまりにも失礼だ。少し悩んで、私は「いいよ」と返した。それは私が見せられる精一杯の誠実さだった。ギャルソニーの件で疲れ果てていたことも影響していた。私たちには、見たくないものが見える視力があり、聞きたくない音が聞こえる聴力があり、考えたくないことまで考えてしまう頭があった。少し考えれば局所解が何であるかがわかってしまった。以前ブックオフでなんとなく買って読まずに置いていた『完全自殺マニュアル』をパラパラとめくって数日を過ごした。なるべく苦痛のない方法を探したが、そういうものは大抵確実性が低いのだとわかり、落胆した。後に聞いたのだが、彼女は(確定ではないものの)飛び降りを考えていたらしい。やはり、私よりもずっとしっかりしている。おだやかな死に方を必死に探していた自分が恥ずかしくなった。

 計画は私たちの不用意さによって実行前に漏れてしまった。ホリィ・センやギャルソニーらがLINEとDMで引き留めようとしてくれたが、もう引き返せなくなっていた。共通の友人CがYの通う高校に連絡したことで、計画は実行30分前に阻止され、私は待ち合わせ場所に向かう電車に乗った直後に引き返すことになった。CとYとはギャルソニーの紹介で知り合った。ギャルソニーは何も意図していなかったが、偶然にもCは私の妹のことを知っており、Yは私のウォッチャーだった。Cは私とYのあいだくらいの年の女の子だ。私とCがギャルソニーから逃げてから、Cは私とCとYの3人でサンコイチなんて言っていた。私たちは全員、非定型発達だった。Cには正しさと優しさがあったので、私たちの意思に反して自殺を止めてしまったことを謝罪した。「あれは人権侵害だった。次は意思を尊重する」と言われたので、正しさと優しさがあるな、と思った。この2人とはいまでも仲がいい。

 死を免れた数日後、私は漫画家の小林銅蟲氏のイベントに行った。小林銅蟲氏が「オイロ*12が来る」と言うので待っていると(これが間違いだった!)、オイロが当時のヒモの持ち手であるチュピマルを引き連れて来たので「めしにしましょう」ということになった。道中、オイロにデパス1mgを渡された私はかなり曖昧になっていた。ラフにデパスを渡すのはやめましょう。絶対に。酒と薬で意識のはっきりしない状態で、オイロは私とチュピマルのツーショット写真を撮り、無断でツイッターにアップした。肖像権の侵害である。ギャルソニーはその写真を添えて、「左の男は複素数太郎さんと言って、数日前に女子高生と自殺しようとしたものの失敗、その数日後女の子と乱痴気さわぎしているようです。人生楽しそうだね〜〜」とツイートした。肖像権の侵害である。見た人ならわかると思うが、全然楽しそうな顔をしていない。乱痴気騒ぎなどしている様子もない。

 

 小山は私に批判されると、ギャルソニーのツイート(酒と薬で記憶が曖昧な状態で撮影された写真およびそれに添えられた中傷の文言)に基づき、この“ゴシップ”を広めながら わかり手@AkihiroKoyama on Twitter: "複素数太郎さん、ネットで散々悪質な嫌がらせをする以外にも、未成年の女子生徒と心中未遂とかしてて、彼が理知的()とか言われてるの見ると??????ってなる。" わかり手@AkihiroKoyama on Twitter: "こういうクズとか女子児童に心中持ちかけるアホ院生とか、ほんとにね、なんやねん君らは。まともに生きろクソ。… " といったように私を中傷するのだ*13。そもそも私が持ちかけたのではないのだが、彼は私の批判を封殺するためなら平気で事実を捻じ曲げる*14。「ネットで散々悪質な嫌がらせ*15をする」というのもどれのことを意図した発言だったのか明示してもらいたい。小山の不適切なツイートを通報したらなんか即凍結しちゃったことについてならツイッター社に文句を言え。日常的に暴言を吐いていたお前にも責任がある。特筆すべきは、彼が「複素数太郎は未成年者と心中しようとしたことがある」「それは複素数太郎がうつ病だからだ」「病人の言うことを真面目に聞いてはいけない」という論法*16で私(たち)の批判を2018年の2月までかわし続けていた、ということだ。自称“支援団体”の代表という肩書きを持つ彼が、まさにその支援対象である障害特性に対して差別的な発言*17をすることについて、小山周辺の人間*18の言うように「彼もまた障害者であるのだから、そこまで潔癖になるべきではない」などと見逃してよいのだろうか。ホリィ・センによるメンヘラ.jp批判では小山が「やっちゃいけないことをやっている」と指摘されているが、おそらくこのことを念頭に入れた批判だろう*19。ちなみに、うつ病の人はそうでない人よりも自分自身や周囲の環境などについての評価が正確になる、ということを示唆する研究*20が存在する。この特性を「うつ病的現実主義」という。

 

・†真実烏†について

 このような短気な人間と同一人物だと思われるのはたいへんに不愉快なのでここで否定しておこう。山川賢一*21がおそらく †真実烏† というアカウントを指して、それが私であることを仄めかすようなツイートをした。それをRTし、小山も真実烏があたかも私であるかのように宣伝した。それに借金玉も乗っかり、彼らは真実烏が私であるということにしようとした。しかし、山川は私が真実烏であるという証拠を何一つ提示していない。山川は小山・借金玉・山川の3人を嫌っている人間なんて思いつかない、と私を連想させるツイートで真実烏に言及していたが、皮肉にも真実烏自身のアンケートによってそれは否定されている*22。彼らはそれぞれ5ちゃんねるに自分の専スレが建ち、なおかつそれぞれにおいてお互いが言及されていることを知っているはずだから、自分たちを攻撃する者など(私を除いて)存在しないのだと思っているなんてことはないだろう。

 山川がこんな滅茶苦茶な言いがかりをつけてくるのは私に対してだけではない。どかい(ラッコ)氏の 山川賢一検証ブログ *23を参照してもらえればわかるように、彼はまず自分の中で「そうであってほしい」あるいは彼自身が「こうでなければ理解できない」という結論を用意し、そこにたどり着くためなら発言の切り貼りや文脈の無視などのおよそ学術的に誠実とは言えないような姑息な手をふんだんに用いる。山川の不誠実さは 山川賢一さんと複素数太郎さんの「無批判に『「知」の欺瞞』を信じちゃう人が味方サイドにいるのはリスクでしかない」という話 からもわかる。山川はこの件で私に恨みを持っている*24ようだから、なおさら滅茶苦茶な言いがかりをつけてくるのだ。彼がソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』における“ゲーデル不完全性定理の濫用についての批判”を文系向け一般教養科目で教えられる程度の論理学の基礎知識もまったく持たない状態で得意げに引用していたところに、私が「それもソーカルらの批判対象となり得る行為ではないか」と指摘を入れたのだ*25。これではポストモダニズム批判によってインターネットで名をあげてきた山川の面目丸つぶれである。しかし、私はけっして山川に不快な思いをさせるつもりなどなく、数理論理学を学ぶ人間として当然すべき指摘を行っただけである。これはたんなる逆恨みでしかない。ただただ迷惑だ。ちなみに、この件で借金玉も山川と共に謝罪に追い込まれた。ホワセプによれば、山川と借金玉はDMで「必ず複素数太郎を殺しましょう」だとかなんとか約束して熱い友情で結ばれていたらしいが、私よりも10近くあるいは20近くも年齢を重ねているというのにこれではあまりにも大人げないのではないか(山川は真実烏にも同じことを言われて相当気分を悪くしていたらしい)。山川は石畑氏にもDMで助けを求めていたらしいので、この話には信憑性がある。とにかく、私がここでどうこう言うよりも、山川賢一検証ブログを読んでもらったほうが話が早い。みなさん、読みましょう。

 

・“政治”について

 小山およびメンヘラ.jpは以前より複数の障害当事者から同じ批判を受けていた。メンヘラ.jpの投稿規約およびそこからリンクされている記事が標準医療信仰・治療文化に基づくものではないか、という批判だ。治療文化批判にもとづくメンヘラ.jp批判が最初に出てきたのは京大理学研究科においてであり、修士課程進学に伴って啓蒙された私もその批判に加わることとなった。小山は「彼は病気だから変なことを言っている」と批判を無視したり、批判者の人格を攻撃したり、特に私に対してはゴシップを拡散しながら「ほっとくとこんなことをするんだからやっぱり治療文化は正しい」と言い放つなどの方法でそれらを封殺していた。「運動に携わっている人間の意見なら聞く」とも宣言していたが、これは当事者団体(?)の代表として著しく信用を損なうような行為だろう。当事者の意見を聞くことの重要性については 熊谷晋一郎『リハビリの夜』(2009) などを参照してもらいたい。

 しかし、2月にそれが大々的に問題になると突然「自分はそんなことわかっている」などと主張しはじめ、「投稿規約はあくまでもこのサイトのものでしかない*26、これを普遍的によいものであるとしているわけではない」などと立場をガラリと変えた*27。“政治”である。仮にそうであっても、ホリィ・センの「このまま影響力が拡大していくと、それこそメンヘラ.jpの提示する「治療」が当事者にとって絶対的なものとして映ってしまう可能性はある」「恣意的で問題のある(ように私には見える)線引きを行って、攻撃している」「メンヘラ.jpが「支援者」としてバランス感覚を持って、適切な線引きをしていけるかどうかには一抹の不安を覚えてしまう」という批判は避けられない、ということは理解しているのだろうか。これは極めて重要な批判であり、そもそも私がずっと言ってきたことと大きく重なるものであるが、小山はちゃんとホリィ・センの言葉を受け止めているのだろうか。少なくとも私には、ホリィ・センの記事が公開されてからも小山はまったく態度を改めていないように見える。

 ホリィ・センに対し、小山は「こういう外部の批判者は貴重」だとか言っていた(そのツイートも消したようだ)が、ホリィ・センのメンヘラ.jp批判は私の記事に大きく依拠している。というか、私の主張をほとんど丸々書き写してくれている。散々罵倒と脅迫で握りつぶしてきた批判でも、発言者が変わればこうも簡単に許容するのだ。ちなみに、私はかなり前からサークルクラッシュ同好会で治療文化批判を紹介してきた。註で述べた通り、会誌にも治療文化批判の文章が掲載されている。京都(のメンヘラ界隈)では“治療文化”という言葉が他府県よりも比較的よく知られているものと思われる。

 

 こういうくだらないインターネット“政治”のために疲弊させられるのはもうこりごりだ。そのこともあり、これほど長い間 @Fukuso_Sutaro を休止して静かに*28療養していた。結局また戻ってきてしまったが。

 

・最後に

 この記事を書いた目的はふたつある。ひとつはもちろん、私が受けてきた被害を魚拓付きでしっかりと公表し、私自身の身を守るためだ。もうひとつは、この記事を読んでいるであろうそこの君。そう、君だよ、ホリィ・セン。君に公開でメッセージを送るためだ。

 君とは短い付き合いではない。私はずっと君の批判者であり、友人だった(つもりだ)。一緒にウィトゲンシュタインを読んだ。ボードリヤールを読んだ。デリダを読んだ。松本卓也を読んだ。何度も君の家で夜通し議論した。君は君のできる範囲内で誠実に応答してくれた。思想が違っても、君はけっして私を罵倒しなかった。もちろん脅迫もしなかった。当たり前のことかもしれないが、いまの私にはそれがとても素晴らしいことのように思える。抗議としてサークルクラッシュ同好会を抜けて @holysen をブロックしたとき、君は「何はともあれ、複素数太郎のことは好きだよ」と言ってくれた。私はいまでもその言葉を信じている。君が昨年のNFにギャルソニーを呼んだことはまだ根に持っているが、私はそれでも君への希望を捨てられずにいる。2016年に君の部屋で私がメンヘラ.jpを批判したとき、君は同調していた*29。そのあと何があったのかは知らないが、いまの君は小山とずいぶん仲が良さそうじゃないか。君の交友関係に口を出す権利は私にはないが、せめてそいつが私に重大な危害を加える人間である、ということは意識しておいてほしい。君が彼を支援すればするほど、私と私の周囲の人間はより深刻な危険に晒されることとなる。私が関東支部のメンバーのみならず元会長の君にまで自分の安否を知らせなかったのは、君の行動ひとつで私の安全が容易に脅かされ得るからだ。おそらく君は誰かから私の現状を聞いてはいたと思う。この数週間、たまたま君と遭遇することはなかったが、私はそれまでと変わらず京都の街を歩いていたし、いくつかのシェアハウスに遊びに行っていた。

 私はずっと前から変わっていない。少なくともここ3年で君の批判者という立場は変わっていない。君は本質的には男性の味方であり、“口説きムーブ”の加害性を過小評価して「男はどんどん失敗すればいい」と考えているらしいが、最近は主にこのことについて君を批判したいと思っている。この話は今度会ったときにしよう。そのためにも、君にはここで私に「もう二度と会いたくない」と思わせないような選択をしてほしい。

 ストレートに言おう。君の友人は危険に晒されている。そして、君はそのことに対して明確に態度を決定することができる。いや、決定しなければならない。君は小山の言動の一部を「看過できない」とは言ったものの、具体的にどれのことなのか指定していないし、それに対して特に何もしているようには見えない。看過しているではないか、と言われても仕方がないだろう。もう曖昧な態度で誤魔化すことはしないでほしい。君が私と議論していたあの時と変わらず誠実な人間であると証明してくれ。決断の時だ。君が私を見捨てるのであれば、それはそれでひとつの選択だと思う。曖昧な態度よりはずっとマシだ。それぞれの選択がどのような結果に繋がるか、よく考えてから決めたほうがいい。

 

 最後にもう一度繰り返す。私はずっと前から変わっていない。

*1:メンヘラ.jp編集長の“わかり手”のこと。過去には“オマテキ”、“アゴ小山”の名も。

*2:通称シリア北大生。北大数学科出身。専門は幾何学。2014年にシリアへ渡航しようとした際、私戦予備の容疑で事情聴取されて話題となった。

*3:例えば次のようなもの。 元リク on Twitter: "メンヘラ.jpが盛り上がってきた所でwordpressのセキュリティインシデントで消失するのが見たい" 元リク on Twitter: "メンヘラ.jpに対する攻撃の最適解はメンヘラ.jpのサイトを消失させることだと思う" 元リク on Twitter: "落合先生がWordPressの脆弱性をついてメンヘラ.jpを消滅させ技術力を見せ付けるといいのではないか" 元リク on Twitter: "メンヘラ.jpが軌道に乗って小山の未来が見え始めた瞬間にWordPressの脆弱性によって消失する所だけが見たい"

*4:サークルクラッシュ同好会会誌6号掲載の 弱者支援の二つのドグマ を参照。治療文化とは、何が“正常からはみ出た”治療対象であるかを非当事者が一方的に決めつけ、それを治療“すべき”ものであるとするイデオロギーのこと。“治療文化批判”あるいは“反治療文化”は「障害特性(のみならず性的指向などのあらゆる特性)の矯正は本人の意思を無視して、あるいはそれ以外の選択肢を隠蔽された状態でなされるべきではない」という自由主義的な運動だ。日本の社会科学界隈においては熊谷晋一郎氏や立岩真也氏の立場がこれに親和的である。先に挙げた私の記事では治療文化の根底にある優生思想を批判している。ここで注意しておかなければならないのは、現代日本の医療従事者はあまり治療文化を内面化していない、ということだ(むしろ活動家や社会学者らのほうが治療文化を内面化している割合が高いのではないだろうか)。ゆえに非定型発達者が“ソーシャルスキルレーニングは受けるがコンサータストラテラなどによる投薬治療はしない”といった選択をすることが可能である。小山は私の発言に対して「精神医療ナメすぎ」などとコメントしていたが、これは明らかに現実の精神医療の現場に対する彼の無知から来るものである。

*5:借金玉 on Twitter: "まなべさん、スケジュール合わせましょう。訪問する場所はわかったので。親切な人が教えてくれました。… " 借金玉 on Twitter: "大丈夫、在宅スケジュールはわからないけど親切な人が居場所の特定に十分な情報をくれたので。ご心配なく。… "

*6:治療文化にかんする議論(?)の直前、ヴィーガン・フェミニズム論争にかんする記事の論調およびその反応への応答により、私はアカデミズムを特権化・内面化しすぎであるとして多方面から批判を浴びていた。後述のボゴソーター氏にも直接「当たり判定がデカすぎ」と苦言を呈されている。ただ、私はけっしてアカデミアを代表して発言したつもりなどなく、フォロワーによって的確に指摘されている通り「既存の研究でそれなりに認められている立場を素人考えで狂人の戯言扱いするのは良くない(たとえその賛同者が非常識的な振る舞いをしていても)ということを言っているだけ」である。客観的にそれ以外の意図が見えてしまうというのであれば、今後は反省していきたい。

*7:小山の当事者への配慮のなさは複数人から指摘されている。 チラ裏@フォースと共にあらんことを on Twitter: "デカイムーブメントには嬉々として乗っかるけど、それ以外の性被害に関してはセカンドレイプも辞さないわかり手。… " スレイマン on Twitter: "電通で自殺した女性について「背後には強姦もあったはずだ」とかアゴ小山=わかり手がほざいていて「死者を冒瀆するのもいい加減にしろ」と思った。" 元リク on Twitter: "メンヘラ.jpの人が特に被害受けた人の事考えずにレイプって言葉使いまくってて、俺よりデリカシーないなって思った" 本件とは独立して、許しがたい発言である。この点についても彼を批判していきたい。

*8:AT教団兵 on Twitter: "わかり手の事実誤認を含むツイートに対して反論や批判をしても真っ当な反応が得られなかったという経験をした方もおられるでしょうが、彼はあらゆる場面においてこのように認知が歪むので、本気で相手や周囲がおかしくて自分は何も間違ってないと思ってやってます。" AT教団兵 on Twitter: "わかり手=アゴ小山の何が怖いって、彼はこういう事実を初歩レベルから歪曲する言動を繰り返すけど、これが実は虚言癖とかじゃなくて彼の中では本気でそういう認知になってるんですよ。" AT教団兵 on Twitter: "「あの界隈と関わりたくなさすぎて僕が数年間沈黙してたせいで、歪められた情報が未だに語られて」とのことですが、わかり手=アゴ小山が例の件についてデタラメを吹聴して俺が訂正するという場面がつい最近もあったと思うのだが?その時は北大生を勝手に逮捕されたことにまでしてたのに何が沈黙やねん"

*9:自分が被った(と彼が思っている)被害にかんしては根拠もなく安易に私と繋げるくせによくもまあ他人の発言を「妄想だ」などと言えるものである。さすがになにかの症状ではないかと疑わざるを得ない。一度主治医に相談してみたほうがよいのではないだろうか。私は本気で小山の病状を心配している。

*10:中学時代から倫理界隈周辺をフォローしていたり、私に恨みを持つ人間とDMで複素数太郎殺害計画を立てたり、ぬいぐるみに包丁を突き立てた画像に私のアイコンを合成して送ってきたりとおませさんである。

*11:もしも未成年者が成人に比べて判断能力(とは?)に欠けるという主張を認めるのなら、中卒は高卒よりも判断能力がないなどと言ってしまったって良さそうだ。Yは受験戦争を勝ち抜き、有名大学に進学した。対して、小山の知人によれば彼は中卒らしい。私はどちらの尺度によっても人を区別することなど絶対にしたくはないが、一方の尺度だけを採用するよりは幾分マシであると考えている。しかし私は未成年者も中卒も「判断能力に欠ける」などとはまったく思わない。

*12:東京のシェアハウス界隈で粗相をしまくって各所にキレられていた人物。キレられすぎてMacにステッカーを大量に貼っていることやマッシュルームカットであることまで批判の対象となった。一生何者にもなれない典型的なワナビである。

*13:アートマン氏が流布しているような小山の過去の性的粗相にかんする噂 を拡散しながら彼を中傷すれば、彼は当然私に抗議するだろう。しかし、私は決してそんなことをしない。私は小山とは違うのだ。

*14:彼のデマに対する立場については 「古事記とか、江戸時代には誰も読める人いなかった」というデマへの対応録 も参照。

*15:私はむしろ2014年頃からインターネットで多彩な嫌がらせを受けていることで知られる人間である。倫理界隈爆撃事件URL引用爆撃事件モンストキッズ大量発生事件なども参照(そもそも界隈の近い小山がこれらの事件に関わっていないかもかなり怪しいところだ)。ちなみに「これ以外はすべて集団ストーカーによる成りすましアカウントです」のような文言をbioに入れていたのはこのためであり、私のフォロワーの多くはそのことをきちんと認識しているはずだが、はるしにゃんの名前をよく出す割には界隈に疎い借金玉は私がサブアカウントの存在を隠蔽するためにこう書いているなどと意味不明な難癖をつけてきた。彼は私が2つのアカウントで彼を批判したことを「波状攻撃」などと呼んで根に持っているようだ。あすかい su Twitter: "純粋に議論をしたい人でも複数のアカウントを使い分けたり、togetterを使って意見を整理したりすることはあると思うんだけど、それをインターネットバトルをしたい人が解釈すると「小技を使っている」「策を弄している」ことになるらしい" は的確な指摘である。そういえば借金玉は私のゴシップを私自身のツイートから知ったと主張していたが、ギャルソニーが件の人権侵害ツイートをしたちょうどその時期に彼は「複素数太郎の顔面に生まれていたらもっと楽な人生だった」などと錯乱したツイートを3回ほどしていたので明らかにギャルソニーのツイートを参照している。これも明らかに嘘ということである。

*16:であれば、「定型発達者および定型社会を内面化した非定型発達者には論理的思考ができないのだから、彼らの言うことを真面目に聞くべきではない」と言ってしまってもいいだろう。むしろそちらのほうに確からしさを感じる、という人も多いのではないか。

*17:すぐに消されたものもあるので、言い逃れできないよう目撃者の証言を貼っておこう。 井山アヒル on Twitter: "わかり手氏の立場もよくわからないって何度も言及したんですけど、彼が複素数太郎氏をよろしくない言葉で罵倒したの、彼の主義には反しないんですかね" あすかい on Twitter: "わかり手さんは発達障害者・精神疾患の自助団体を運営していながら、それに対して実際的な批判を行なっている反治療文化の記事について、内容に触れることなくその記事を書いた人の人身攻撃をして済ませるつもりなんですかね"

*18:借金玉 on Twitter: "メンヘラjpの思想基盤なんて僕が今日作ったやつをシェアすれば十分でしょう。小山さんの粗相についてですが、病人が粗相してなんか悪いんですかね。法に触れない限りしょうがないのではないですか。あなたがアカデミズムから降りて同じ弱者として論じるなら別ですが。… " べとりん on Twitter: "ちなみに、「支援者は~してはいけない」というロジックは、ピア活動の領域では「支援者差別」として批判されてますね。それは「助ける側」と「助けられる側」の間に壁を作る行為だから。" しかし、支援者と被支援者の間には現に無視できない権力の非対称性が存在する。彼らはそのリスクを理解しているのだろうか。

*19:私が小山を批判する理由は2016年あたりからホリィ・センに直接伝え続けていた。その内容・理論的変遷はほとんど共有済みである。にも関わらず、ホリィ・センは小山に寛容過ぎる。私の小山への批判が2017年後半あたりから激化した直接の原因は、関東支部のメンバー(べとりん氏)が小山とつるんでおり、その活動を京都にも持ち込もうとしたことである。『弱者支援の二つのドグマ』でも指摘したように、弱者支援・マイノリティ運動において急進的な京都大学の学生ですら、「関西クィア映画祭」の立て看板に見られるような“過ち”を犯してしまう。しかし、この京都というアカデミア・非アガデミアの両領域が密接に関わりあう土地において、活動家・支援者および当事者らが適切に話し合い、積極的に研究していくことで、運動の理論的洗練が十分に期待できる。サークルクラッシュ同好会にはミソジニーミサンドリーや加害性を持つ口説きムーブなどといった問題が存在するが、これらは(長期的には)けっして改善不可能なものではない。会の成立過程そのものが孕む差別性についても、いま以上に真剣に考えていかなければならない。京大教員の松本卓也氏はサークルクラッシュ同好会の批判者である(関係者を自分のゼミには入れないと宣言している)が、現在こういった強い批判に応答できるような会員はまだまだ少ないと感じる。これからが大事だ、という時に、何に対してもあれだけ配慮に欠ける小山を関わらせるのは私にとって許しがたいことだった。

*20:D. Hussain, Depressive Realism Hypothesis: Reflections and Critical Analysis, International Journal of Psychosocial Rehabilitation 17(1): 59-64, 2012. や M. Moore and D. Fresco, Depressive Realism: A Meta-Analytic Review, Clinical Psychology Review 32(6): 496-509, 2012. などを参照。

*21:金沢大の仲正昌樹氏に粘着するアニメ・アイコン40歳

*22:他のツイッターユーザーにも「借金玉氏とわかり手氏が敵なら当然しんかい氏も敵だと思うんですが……」と突っ込まれている。また、 彼らは同じ界隈であり、一人を嫌っていれば全員を嫌っている可能性は高い。山川・小山はそのような簡単なことすらもわからない人間だというのに、一丁前にあれほど多くの人間を批判してきたのだろうか。私の生存が発覚してからも SP on Twitter: "複素数太郎over鳥説は俺の中の公正世界信念がNOと言ってる" トデス子' on Twitter: "烏の中身が数太郎、さすがに異常すぎて想定できない(誰が中身でも異常すぎるという説はあるが……)" まさみこ on Twitter: "真実烏、小林銅蟲先生が好きと公表していたりアップローダーにimgur使うユーザーだったかがかつて複素数太郎の追っかけにいた(凍結された)のでソイツだと思うが" というお便りをいただいている。あのような妄想をしているのは彼らだけである。

*23:山川はどかい氏を「自分がクリティカルな反論をされると話をそらして別の批判をするという行為を続けていてキリがない」などと評しているが、山川と議論したことのある人であれば「それはお前だろ」と即座に突っ込みたくなるはずである。現に私も「山川の滅茶苦茶な言いがかりを訂正するためにリプライを送ったが、無視されて急に別のイチャモンをつけられ、誤読による批判だと判明したあともまったく訂正してもらえない」という経験を何度もしている。また、興味深いことに彼は山川検証ブログから話をそらすために突然どかい氏と関係のない私のゴシップに話題を切り替えたのだ。

*24:山川はこの件で形式的に謝罪してはいるものの、明らかにまったく反省していない。彼はその後も「文献をきちんと確認しない」という同じ過ち(山川検証ブログを参照)を繰り返し、そのことを指摘されても訂正すらしなくなってしまった。彼が本当に自身のふるまいについて反省するまで、逆ソーカル事件いつまでも蒸し返されることだろう。ちなみに「山川賢一」でググると、最初のページにはWikipediaTwitterアカウント、逆ソーカルまとめ、Amazon、note、山川検証ブログ、山川観察スレの順で表示される。次のページに進むと、当人と関係のない同姓同名の暴力団組長の情報が出てくる。ちょっとこれはあまりにも可哀想だ。しかし、逆ソーカルの件以外は私とは関係のない話である。

*25:私の共同研究者によるコメントを引用する。「もしかしたらそのステートメント不完全性定理と同値かもしれませんよ?まさか, 体系や矛盾や形式化(形式的証明)といったタームを日常的な意味に理解したら間違ってることが分かる, みたいなレベルで批判してるんですか」「数理論理学の最低限の知識がなくても批判できるという人は「Gödelは数学が創造的であることを証明した」という文章を検討していただきたい」「Gödelの定理の結論は, たとえこのように数学的命題の厳密に定義された本体[数学の基礎論となる形式的体系のこと]を固定したとしても, 数学的思考は本質的に創造的であり続けることを逃れられない, ということである (Emil L. Post 1944)」「前のふわっとした主張を解きほぐすには, Gödel(-Rosser)の定理の主張と, Postの1944年の論文(およびそこで導入された集合や理論の創造性のフォーマルな定義)を把握している必要がある.

*26:あくまでも○○内のことだ、という弁解はまさに小山が執拗に取り上げる「毒親」的な論理である。優生思想に関連した極端な例を出すと、ヨーロッパで行われていたユダヤ人迫害にアメリカ人が口を出すことは小山の主張に従うならば禁じられてしまう。

*27:あすかい on Twitter: "借金玉氏がわかり手氏の主張を忖度したツイートにわかり手氏が同意したことで、応募規定に書かれていることはあくまで「いち私メディアの「読書投稿の応募規定」」で普遍的な善を規定、主張しているものではないということになったけど、… " あすかい on Twitter: "「メンヘラの目指すべきはメンヘラを治すこと「寛解」であることは間違いないだろう」と過去には主張している文章もあるので、"政治"的な判断で主張を変えた可能性も否めないですね。… "

*28:静かに、でもないか。エゴサしまくってたからみなさんが人の死亡説を棒にして人間を殴ったり大喜利で遊んだりしてたのは見ていた。ああいうのは良くないと思う。

*29:ただ、私が“治療文化”という概念を知ったのは理学研究科においてであるから、この時はまだ精度の低い批判だった。当時の私はトーキョー批判(当時、京都の一部界隈でトーキョー批判の理論的構築が試みられていた)の文脈で、メンヘラ展とメンヘラ.jpを「強いメンヘラしか救われない」ようなものであり、さらなる階層を生産するものだとして批判していた。私の中でその流れはより精度を高めて関西クィア映画祭批判などのサブマイノリティ問題に接続されているが、治療文化批判以後のメンヘラ.jp批判にはあまり採用していない。

ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか

 数日前からインターネットの一部を騒がせている「ヴィーガンフェミニズム論争」だが、僕はこの問いの受容に対して大きな問題を感じている。というのも、いわゆる “インターネット論客” の多くがヴィーガン側の言い分をたんなる気の狂った言説であるとして処理しようとしているのだ。「フェミニストは乳製品を食べてもいいのか?」問題は倫理学的にも社会学的にも極めて重要なテーマであり、僕たちはこのデリケートな問いをもっと慎重に扱わなければならない。とはいえ、「フェミニズム」と「ヴィーガニズム」の対立(あるいは同一化)などという、多くの人にとってはあまり聞きなれないような話についていくのは難しいだろう。この困った事態を解消するために、「結局のところ何が問題であったのか」をこの記事でできる限り詳細に解説しようと思う。

 先に断っておかなければならないのは、僕はヴィーガンでもフェミニストでもない、ということだ。ヴィーガンのみなさんには申し訳ないが、僕はチーズが大好きだし、第3次フェミニズムにおける思想的前進をすっかり忘却してしまった現代の劣悪なフェミニズム*1に与する気もまったく起きない。それでもなおこの話題に口を挟むのは、僕がかねてから取り組んでいる “非定型” の問題圏と密接に関わっているからである。また、どちらの主張にも完全なる同意はできないのだが、それでも脊髄反射的な拒絶反応に対して真摯に応答を続けているヴィーガン側に共感を覚える。

 

 もともとの問いは「フェミニストは乳製品を食べてもよいのか?」であった。ヴィーガンRac氏からフェミニストのシュナムル氏に発せられたもの*2である。これは突飛な問題提起――たんにその場をかき乱すためだけのもの――に見えるかもしれない。彼ら(ヴィーガン)の論拠はこうだ。①乳牛は人間によって性交を管理され、生まれてきた子供は取り上げられてしまう。これを生産性が維持できなくなるまで何度も繰り返す。②これがもし人間の女性についての事実であれば、フェミニストは必ず批判するだろう。③よって、フェミニズムを徹底するならこのような生産方法を許容すべきではない。①と②は端的に事実である。さて、これらから③を導くものはいったいなんなのか。

 「ヴィーガンフェミニズム」はヴィーガンコミュニティではある程度知られた問題*3であり、倫理学社会学方面においても90年代から同様の議論が存在する*4*5。つまり、この問いは過激なヴィーガンによって突発的に立ち上がったものではない。ヴィーガニズムは素朴には “種差別に抵抗する思想” と説明できるだろう。であれば、少なくともヴィーガン側にとってフェミニズム運動とは “ヒトの女性” の権利のみならず “牛の女性” すなわち雌牛の権利も保障する運動として理解されるものである。したがって、種差別を拒否する限りにおいて、「フェミニストは乳製品を食べてはいけない」という主張は自然に導かれるというわけだ。フェミニズムのそもそもの成立過程を考えてみると、たしかにこれはヒト特有の歴史的事情に依存している。しかし、フェミニズムをはじめとするマルクス主義以後の包摂的権利運動というものは、考え得るあらゆる近接問題をその内に取り込みつつ発展させていかなければならない。これは定義上導かれる性質である。「種差別」という壁一枚隔てたこれらの問題は、じゅうぶんに近接問題と見做してよいと言える。よって、フェミニズムにとってヴィーガンフェミニズムの問題系は簡単に無視できるものではないのだ。

 

 “ヒト” と言ってしまうと多分に生物学的ニュアンスを含んでしまうので、ここからは議論の中心を “人間” に移そう。フェミニズムが種差別を容認しつつ可能であると主張するひとは「人間と牛は違う」のだと言う。では、人間と牛をなにが分け隔てるのだろうか。まず第一に想定されるのは、ゲノムにその差異を求める、という分類だ。白人でも黒人でもアジア人でも、男性でも女性でも、個体ごとに多少の違いはあれど統計的には(ゲノムについての本質主義に基づくならば超越論的に)ほとんど特定の遺伝情報を持っている。人間とそれ以外の動物は、ゲノムを調べてやることでうまく分類することができそうだ。だが、ここである問題が生じる。標準的なヒトゲノムというものがあるのならば、そこから大きく外れた遺伝情報を持つ個体は人間でない、あるいは人間ではあるが “欠陥品” である、ということになる。現に染色体異常によってダウン症(トリソミーの一種)やクラインフェルター症(性染色体異常の一種)が一定確率で生じるが、彼らは確実に人間であり、また、決して欠陥品などではない。もし染色体異常―—そもそもこんな呼び方がいけないのだが——の人々が “欠陥” のある人間だと言うのであれば、それは優生思想である。ヴィーガンがどう考えるかはさておき、僕は治療主義批判*6をしている者としてこの結論に同意することはできない。

 もしくは、人間特有の能力によって判別するのだ、とするのもひとつの手である。あなたがいままさに使っているパソコンあるいはスマートフォンのような複雑な道具を他の動物は作ったり使ったりすることができない。しかし人間の大多数はどうせ情報科学も計算機科学もろくに理解していないだろうし、完成品を使いこなすことだって一部の人間にしかできない。よって、複雑な道具は特定個体が人間であるかどうかの判別には使えない。単純な道具使用——さらには言語的思考能力——についてであれば、たとえば霊長類研究所の研究*7を参照すればわかるように、人間特有の能力とは言えないことがわかるだろう。ここでも障害者の代入による破綻が生じる、ということはもはや明らかである。人間特有の能力として最もよく挙げられるであろうもの、それはコミュニケーション可能性だ。しかしここでも、見てわかるような重度の器質的障害を抱えた人はもちろんのこと、自閉症スペクトラムなどの一見してわからないような “コミュニケーションに困難を抱えた人”*8は排除されてしまう。

 “人間” 概念を所与とするのはどうやら困難そうだ、ということを確認した。ここまでの議論は、もしかしたら重箱の隅をつつくようなものに見えたかもしれない。多くのフェミニストは――これはたいへんな問題なのだが――障害者や動物についてそこまで深く考えていないだろう。治療主義批判すらも受け入れてもらえなさそうだ。しかし、このことを真剣に考えなければ通常の素朴なフェミニズム内部においても深刻な状況が発生する。どういうことか。フェミニズムにおいて、人工妊娠中絶にかんする問題は主要なテーマのひとつである。ここで問題となるのは、妊婦と胎児の権利の衝突だ。胎児が人間であれば、胎児を殺すことは成体を殺すことと同義になり、認められなくなる。他方、望まぬ妊娠をした女性にとって胎児は自身の生存への脅威となるかもしれない。受精時点から胎児の全体が露出し、成体となるまでの過程は連続である。この権利の衝突において妊婦を勝利させるのだとすれば、この連続的な直線のどこかに特異点―—人間でないものが人間になる瞬間——を打ち込まなければならない*9。それはどこなのだろうか。ここで深くは論じないが、これはフェミニストが無視できるような問題ではない、ということはわかるだろう。

 

 以上で、“人間” 概念の定義困難性、そしてフェミニズムにとってそれが重要な問題であることを示した。ここまで説明すれば、もはやヴィーガンの問い(「フェミニストは乳製品を食べてもいいのか?」)が突飛なものとは思えないだろう。では植物はどうなのかと聞かれれば、たしかにヴィーガニズムは満足のいく答えを返してくれないのだが、実際にヴィーガニズムを突き詰めると動物の生活すら立ち行かなくなること*10と、ヴィーガンの問いに整合性があるかどうかということはべつの問題だ。この問い自体は極めてまっとうなものであり、ヴィーガニズムに賛同せずとも擁護することはじゅうぶんに可能である。

 

【追記】

 この記事の主旨をまったく理解できていないコメントが多数寄せられて、いささかうんざりしている。あまり気が進まないが、これ以上の面倒を避けるために追記しておこう。まず、冒頭で述べているように僕はヴィーガンではない。このことはヴィーガンの方々にとってあまり愉快ではない事実だが、残念ながらそうなのだ。申し訳ない。ヴィーガニズムを採用しない理由はふたつある。ひとつは、Why be moral? 問題の時点で僕とヴィーガニズムが噛み合っていないという根本的なものである。端的に言ってしまえば、僕は「悪いことをしてはいけない」という原則にあまりうまく乗れないのだ。ヴィーガンが完璧に筋の通った道徳原理を提示しようとも、僕がそれを採用するとは限らない。もうひとつは、ヴィーガンが動物と植物を分ける際に用いる論法――たとえば “感覚” にかんする科学的根拠の提示――もまた、アンチヴィーガンが “人間” 概念の内外を画定するときと同様、ある症状を持った障害者が排除されかねない、一歩間違えれば優生思想に転じるようなものである、という理由だ(もちろん、僕が不勉強なだけでその批判への応答は用意されているのかもしれない)。だからヴィーガンに向ける批判を僕に向けられても対応することができない。

 また、僕があたかも「牛は人間である」と言うためにこの記事を書いたのだと認識している者もいた。世の中の大多数の人間は少しでもメタレベルの議論が混入すると途端にその論旨が理解できなくなるものだ、というとてもたいせつなことを忘れていた。申し訳ない。ここで第一に問題としているのは、「フェミニストは乳製品を食べてもいいのか?」という問いが本当に突飛なものなのか、ということであって、どの立場のどの主張が正しいか、ということは重要ではない。それとは独立した話題として、倫理学的な議論の紹介パートにおいて、僕が取り組む主要テーマである治療主義批判・反中心主義についても並行して扱った。この議論の詳細は注に掲載した過去記事『弱者支援の二つのドグマ』を参照してほしい。「牛は人間でない」「植物は動物と違う」は、その根拠によってはどちらも自閉症者にとってまずい思想に繋がってしまう可能性を孕む言明だ。まあ、その話はあくまでもオマケである。とにかく、結局のところ牛が人間であるかどうかなんてことはどうでもいいのだ。そこをハッキリと意識しておかなければ、やはり何が問題であったのかは理解できないだろう。

【追記2】

ㅤ僕が取り上げた立場はヴィーガニズムの定説というわけではないという声が挙がっているが、この記事では今回の議論でヴィーガン側が主に用いていた論法群の中でもとくに整合的なものをピックアップするに留めているので、そこは注意しておきたい。加えて、何度も繰り返すように、“人間” の定義困難性にかんする議論は隠れた優生思想をあぶり出すものである、ということも強調しておきたい。これは種差別の問題に踏み込まないとしても重要となるポイントである。

【追記3】

ㅤこの記事に対してシンガーを持ち出して「シンガーの思想と合っていないから学術的におかしい」などと言う信じ難いほどの愚か者が散見される。そもそも今時ヴィーガンですら完全にシンガーに依拠している者がどれほどいるか疑問なのだが、彼らはシンガー以外に倫理学者はいないとでも思っているのだろうか?ㅤここで取り上げられているような話は現代的な生命倫理の議論では当たり前のように出てくる。僕もこの記事を書いた後に科学技術リテラシー系の講義でこれとほとんど同じ議論が教科書でも演習内でのディスカッションでも出てきたのを確認しているし、そもそもこの話を出した当時から参考文献は提示している。

ㅤ他にも気になったのが「現実と学問は違う」といった反知性主義的な立場だ。「反知性主義」という言葉を使うと自動的に「頭が悪い」と言われているという被害妄想をぶつけてくる人間が出てくるのだが、そういう人々は自分の知らない言葉に出くわしたときにきちんとその意味を調べるという習慣をつけることを勧める。でなければ、どちらの意味でも「反知性」であると見做されても仕方がないだろう。話を戻すが、学術的な分析が現実と乖離したものだと思っている人々は、哲学的分析というものが日常的な事物の分析の延長線上にあるということをまったく理解していないようだ。我々は日々、常に何かしらの事物を分析しつつ生きている。これを可能な限りソリッドに精密にしたのが“哲学”だ。そして、我々は事物を分析するにあたってどれほどの精密さが求められるかを知ることができるほど偉くはないのだ。思い上がってはいけない。誠実に、可能な限り精密な思考を追求し続けなければ、愚かな有限者たる僕たちは絶対に間違いを犯してしまう。だからこそ、やりすぎるほどに考えて、考えて、考え尽くさなければならないのだ。

*1:そもそも性別なるものは社会構築的な概念に過ぎず、性別二元論に乗って男女対立を再生産し続けるフェミニズムには構造的欠陥がある。このことに自覚的であること、そして運動する主体が積極的にこの構造を解体しつつ前進すること、これがフェミニズム運動に本来求められるべきことである。

*2:https://web.archive.org/web/20180129035608/https://twitter.com/vgnbpog/status/957100050932314112

*3:Why milk is a feminist issue | Viva!

*4:https://t.co/3OqpDSO9lR

*5:http://fewd.univie.ac.at/fileadmin/user_upload/inst_ethik_wiss_dialog/George__Kathrin_Paxton_1994._Should_Feminists_Be_Vegetarians_9407062060.pdf

*6:“反治療主義” は反精神医学のように標準的な医療行為を否定するものではない。それは統計的に少数であるような(仮に多数であっても)ある特性を “異常” とし、積極的に治療し、消去すべきであるとする優生思想的なイデオロギーに抵抗するものである。詳しくは http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2017/12/12/014414 を参照。

*7:https://www.jstage.jst.go.jp/article/psj1985/11/3/11_3_215/_pdf など。ここでは人類と類人猿との “近さ” を認めてもなお残る両者の違いを挙げているが、この差異は “特定個体の判別” という問題には影響しない。

*8:これはあくまでも “定型発達的な” コミュニケーションについて困難を抱えているという意味である、ということに注意しなければならない。非定型発達者が多数を占める場において、定型発達者はコミュニケーション能力に問題のある人間だと判定されるだろう。

*9:その変化がもし連続的であるとすれば、ある時点を取り出して “50%の人間” や “70%の人間” などといった危険な概念が生まれてしまう。一歩間違えれば同じ言葉が障害者や類人猿などに適用されるおそれがあり、望ましくない。

*10:だからヴィーガンが反出生主義に落ち着くことも多い。

多賀宮氏によるアカハラについて

ㅤAcademic Harassmentは通常、教職員によるハラスメントを指す語だが、ここでは相手が哲学専攻の博士課程、こちらが非哲学専攻の修士課程在学中とかなり明確な力関係があることからあえて“アカハラ”という語を使用する。また、僕がまだ問題を現実世界まで広げる必要を感じていないこと、double-blind方式で査読中の論文に言及すること、などを踏まえていくつかぼかしている部分もある。

ㅤ「多賀宮*1こと大畑浩志*2氏とは今年の春から夏にかけて論理学の勉強会(といっても命題論理の完全性や演繹定理を証明するくらいのことしかやらない)をしていた。彼から「研究している分野に確率論が使われているから教えてほしい」という連絡がきた。僕たちはStanford Encyclopedia of Philosophyのあるページを読みながらLINE通話をした。そこに書かれていることについて、主に僕が過去の議論をその場で把握するため、そして彼に確率論の基礎を教えるための簡単な話し合いはあったが、その内容はWebサイトに書かれていることを一切超えていない。ここで行われている議論はおよそ20年前から続くものであり、(何年前であろうとここまでおおっぴらにアクセスが許されているなら当然そうなのだが)じゅうぶんに「公共の」問いであると言えよう。日本語で書かれた文献がザッと調べた限りでは見つからないという状況ではあったという点でメジャーとは言い難いことは確かである。だが、その程度の些細なことが問うことそれ自体の公共性をいささかも毀損することはないと、どの学問分野であろうと多くの研究者が同意することだろう。僕もそれでどれだけ苦労してきたことか……。また、僕に紹介した時点およびその少し後に京都で直接話したとき、彼が先行研究を最低限でも理解していたかは、正直なところかなり疑問がある。少し後にそのWebサイトに書かれていた内容に関係する記述のある学振書類のチェックも頼まれた。僕は素直に読んで「数学的によくなさそうなところ」と「素人から見るとよくわからないところ」を二、三指摘した(ように思う)。あまり詳細は覚えていない。今回投稿した論文に(先述のWebサイトですでにまとめられていること以外には)その学振書類でのサーヴェイと内容を共有しているところはまったくない、ということは多賀宮氏も否定できないだろう。僕は投稿した論文を“投稿直後に”多賀宮氏へ直接手渡したのだから、アカハラ事案発生時点までのあいだに全文読んでいるはずであり、そんなことは彼もわかっているはずである*3。ここまでで重要なのは、多賀宮氏の寄与は「ある(有名な)Webサイトの特定のページのURLを教えたこと」だけである、ということだ。ここに書かれていない先行研究については自分で資料を集めて補完した。

ㅤ今月はじめ、久しぶりに多賀宮氏と直接会う機会があり、同じジャーナルに論文を投稿していたことを互いに確認した。僕はちょうどそのジャーナルを発行している学会に入ったばかりだったので、せっかくなので手持ちのネタを送ってみることにしたのだ。そのネタは件のWebサイトを見てから断続的に研究していたもので、だいたい次のような方針のものである。ある研究者はこの営みをすることそれ自体を批判している。その根拠は5つある。僕はそのうち4つを解消する手続きをアルゴリズムの形で提示し、残りひとつへの対処法も簡単に仄めかした。また、超準解析を使うことで概念をより日常的な感覚に沿ったものへと近づけることができるのではないか、というべつの主張も短く展開した。この“方針”が多賀宮氏の研究とは完全に独立しているということは誰の目にも明らかである。この点に関してさすがに関係者の誰も一切の異論はないと信じたい。問題は、ある哲学的概念を数学の言葉で表現したい、という問い自体が自分のパクリなんじゃないか、と彼が考えているところである。なぜ20年近くも前から議論されていることについて、たんにその紹介を(じゅうぶんに理解することもなしに)しただけである彼の了承を得なければ公表することができないのだろうか。僕にはまったくその理由がわからない。

ㅤ僕が東京の研究集会での発表から帰ってきた直後、多賀宮氏から“忠告”があった。その発表のハンドアウトを読み、僕が投稿した論文に関係する内容が(最後のページにほんの少し)書かれていたのを見たのがきっかけらしい。そのマイナー分野の研究を勝手に公表することはグレーな行為である、という主旨だった。それだけなら、冷静にこれまでの経緯を思い出してもらって認識を正すことで丸く収まったのだが、残念ながら彼は次のことを付け加えてしまった。自分は周囲の研究者にもこの話をして、皆が自分と同じ考えであることを確認済みであるが、自分が何かアクションを起こすことは、今回はない。哲学コミュニティで僕よりもずっと顔が広く、けっして無名ではない大学ですでに博士課程の学生として精力的に活動している彼が、そう言ったのだ。これは“脅迫”と捉えざるを得ない。彼がどれだけ詳細に今回のことを周囲に話しているかは知らないが、少ない情報でも状況などから僕を特定することは容易であると考えられる。したがって、僕はすでに不当に名誉を一定まで毀損されていると考えていいだろう。そして、彼は僕をいつでも哲学コミュニティに居づらくすることができるのだ。僕はこれからそういう恐怖を感じながら研究を続けていかなければならない。これをアカハラと呼ばずになんと呼べばいいのだろう。百歩譲って、WebサイトのURLを教えてくれた(というだけの)ことに対する感謝を込めて投稿前に一言礼を言うことは、アカデミアのルールとは独立によいことであるとしよう。しかし、それはあくまでも彼の言うような「研究の作法」とはまったく関係のないことである。Webサイトに書かれていることをただ一緒になぞるだけのことに新規性などない。そのうえ、あくまでも友人として一言入れることすら困難にしたのは、アカデミアにおいて政治的に厄介者である僕から自主的に離れていった多賀宮氏自身ではないか。彼がまだ研究を大々的に公表していない以上、参考文献として挙げることもできない。もうひとつ加えておこう。彼は僕が自力ではその分野にたどり着けなかっただろうとタカをくくっていたが、この分野で比較的多く成果を出しているある研究者は、超準解析にかんする論文も書いている。すなわち、少なくともその研究者の論文を読む理由が僕にはある。そのことは多賀宮氏に渡した論文でも言及されている。そのうえでのこの発言である。最初から最後まで支離滅裂な言い掛かりであると判断せざるを得ない。これはけっして分野間の作法の違いから生じる問題ではない、ということはわかっていただけたと思う。

ㅤ僕はこれからもこの分野で論文を投稿していくだろうし、そのことについていちいち多賀宮氏の了承を得ることはない。必要とあらば彼の論文等を参考文献として挙げることもあるかもしれないが、それは本当に必要となったときだけである。つまり、今後も普通にやっていく。

*1:https://twitter.com/intent/user?user_id=402650297

*2:https://researchmap.jp/hohata/

*3:対して、僕は多賀宮氏が投稿した論文の内容をまだ知らない。

なぜサークルクラッシュ同好会はかくもつまらなくなったのか

 この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2017の12日目の記事である。

 

 

 感情、人間関係、社会、その他お前たちがやっているぬいぐるみ遊びではないあらゆる行為、そういったものでお前が終わっていくのを見るのも、苦しんでいるのを見るのも、そろそろやめにしたい。お前たちが大人になっても、あるいはすでに大人であったことを自覚したとしても、僕は、僕だけはただひとり、ぬいぐるみ遊びだけを続けることだろう。お前たちは大人になればいい。大人には老衰があり、必ずしも病気や事故などのアクシデントに限らない死があり、義務があり、子供に毛の生えたような権利を守るために強いられる努力があり、想像力(って何?)の要請がある。そんなくだらないものはすべて、ここで断ち切ろうじゃないか。

 

 

 僕はサークルクラッシュ同好会の会員だったらしい。どこかで入会の意思を表明したわけではないが、「サークルクラッシュ同好会のLINEグループにグロ画像を連投したい」とツイートしたところ、悪ふざけでLINEグループに追加された。それで入会が成立したとのことだ。それからはなんとなく例会に参加するようになり、会員の中でも比較的活動していた(つもりである)。会誌『Circle Crash Lovers Association vol.6』にも「弱者支援の二つのドグマ 序説」という文章を寄稿した。しかし僕は先月、やむを得ずサークルクラッシュ同好会関連のLINEグループすべてを抜け、サークルクラッシュ同好会初代会長であるホリィ・セン(@holysen)のツイッターアカウントをブロックすることとなった(いろいろと不便なので現在は解除している)。その経緯について書こうと思う。「拗らせ自分語り」とかいうよくわからんテーマは無視するとして、少しだけ僕のことについて書いておこう。

 僕はADHDで、自閉症スペクトラムで、鬱病である。2週間に一度カウンセリングを受け、コンサータを処方される。それに加え、輸入したサプリメントを何種類か服用している。つまり、よくいる障害者だ。幸いリストカットなどの自傷癖はないが、僕とその周辺のツイッターアカウントをフォローしている人間なら夏あたりに「左の男は複素数太郎さんといって、████と自殺しようとした数日後に女と遊んでいるみたいです。人生楽しそうですね~」みたいな顔写真付き正義の告発ツイート*1を目にしたかもしれない。この告発には多分に事実誤認が含まれているので真に受けないでほしい(正義の告発氏が入手した写真は酒とデパスで酩酊させられているときに無理やり撮られたものなので記憶にないし、明らかに楽しそうな顔をしていない)のだが、鬱病に起因する強い希死念慮があることにかんしては事実である。今は数学専攻の修士課程1年目で、卒業後どうするかは決めていない。勝手に指導教官の専門とは関係のない分野を研究しているせいで現在所属している研究室に残ることはできないのだが、就活はひとがこわいので不可能であり、企業で被雇用者として生活していくことに意味を感じることが生来まったくできないし、少し接客業をやった結果脳が一生接客ができない構造に変化してしまい、自分が詰みの状態にあることを家族にも話せていない。これくらいでいいだろう。そろそろ「他人語り」をはじめよう。

 

 さて、サークラ同好会と縁を切ったときのことを書こう。あの日、サークラLINEに目を疑うような投稿があった。そこには、サークラ同好会関東支部がメンヘラ.jpと協力して当事者研究を行っているということ、京都にもその活動を広げたいということ、が書かれていた(ように記憶しているが、今はもう確認することができない)。以前からメンヘラ.jpの有害性をしつこく指摘していた僕は、すぐにサークラ同好会関連のすべてのLINEグループを退会した。僕にとってサークラ同好会は、インターネットで着実に影響力を広げていくメンヘラ.jpに対抗し得る数少ない比較的まともな団体だった。しかし、その期待は見当外れなものだったらしい。

 メンヘラ.jpのどこが有害か簡潔にまとめておこう。「メンヘラ」は今や誰もが知るネットスラングである。原義は「2ちゃんねる*2メンタルヘルス板にいるような人」、すなわちメンヘル(板)-erだ。大まかに境界性パーソナリティ障害あるいは双極性障害の特徴を持つ人間の呼称として使われるという緩い共通性はなくもないが、もはや辞書的に説明できるような意味が存在しないバズワードと化している。「メンヘラ」という語はその原義と使用の曖昧化の過程から、どうしてもスティグマとしての機能を持たざるを得ない。この語が使われるときはほとんどの場合に侮蔑か自虐の意図を含むこととなる。そうでない場合、メンヘラ的アイコンやメンヘラ的行動などにオシャレさを感じて使う、ということも考えられる。実際、はるしにゃんやメンヘラ神ことかすうさ氏らのツイッター上および文学フリマにおける活動はそのような使用を促進した。僕も彼らと近い位置にいた人間のひとりなので、お前もメンヘラのコンテンツ化に貢献しただろうと批判されるかもしれないが、今はそういった活動への参加は控えているので見逃してほしい。僕は治療主義批判の立場にいるので、自分の属性を肯定的に捉えることについてはそれが境界性パーソナリティ障害などの精神疾患であっても否定すべきではないと思っている。しかし、この場合は必ずしも「自分の属性」を魅力として捉えているわけではなく、世間の曖昧な「メンヘラ」イメージを自分の近傍10メートル程度の解釈を通してできたキラキラの「テンプレート」を身に纏っているに過ぎないという点で、手放しに称賛すべき自己表現ではないとも言える。それは自己ではない。「メンヘラ」という語の取り扱いには細心の注意が払われなければならない。そんな曖昧なネットスラングである「メンヘラ」で、多様な生きづらさを抱えている人間たちを集めると何が起こるか。個々の特性は上書きされ、生きづらさの本来の原因は覆い隠され、最悪の場合、スティグマとしての「メンヘラ」の問題を自分の問題と同一化してしまうかもしれない。よほどうまくやれば、もしかすると「メンヘラ」という語を使いつつも慎重に個人の問題と向き合うような活動は可能かもしれないが、メンヘラ.jpを運営するわかり手ことオマテキ(お前の敵)こと小山氏は――僕が他者をこんなふうに罵ることはほとんどないが、彼だけはさすがにこう形容するほかないだろう――今から改善するには遅すぎるほど頭が悪い。その程度は僕への「心中しようとした人間に言われたくない。病気を放置するとそういうことをやるからやっぱり治療すべき」「精神疾患のある人間に論理をぶつけると症状が悪化するから良くないな」(消えてしまったので正確には思い出せないが、だいたいこのような内容)という心無い罵倒からも窺い知れる。もうどうしようもないのだ。

 ここまででメンヘラ.jpが抱える有害性の半分を説明した。もう半分は、僕がずっと批判し続けている「治療文化」に関係する。オマテキが治療文化を否定しないことはツイッターで確認済みである。治療主義批判の詳細な話はサークラ会誌掲載の「弱者支援の二つのドグマ」を参照してほしい。治療主義の最終目標は障害特性のジェノサイドであり、そのような優生思想に基づく“支援”活動には抵抗していかなければならない。にもかかわらず、サークラ同好会関東支部はメンヘラ.jpと結託し、あろうことかその活動を京都にまで持ち込もうとしたのだ。もはやどこにも救いはない。

 会員の“鈍さ”に失望したことも、サークラ同好会を抜けることになった大きな理由である。メンヘラ.jpと手を組むという時点で相当に感度が鈍っていると判断せざるを得ないが、それでも先述の投稿だけでは退会の決め手にはなっていなかったかもしれない。せっかく会長が変わったのにまだ彼が影響力を持っているのではサークラ同好会も長くは続くまい。サークラ同好会はサクラ荘というシェアハウスを何軒か運営している。以前、サークラ同好会会員が女性専用シェアハウスを作るといってツイッター上で宣伝を行っていた。おそらく「女性」で意図する対象は陰茎の有無で男女を分けたときの「非陰茎所持者」だろう*3。会員はなんの疑問も抱かずにそれをリツイートして拡散に協力していた。社会科学系サークルの会長ともあろう者が、共同生活という繊細な問題において慎重であらねばならない女性/男性の区分をこうも乱暴に扱った募集に手を貸すのはいかがなものか。「サークルクラッシャー診断アプリ」という驚くべき企画がホリィ・センの確認を経たうえで通ったことも記憶に新しい。僕はこれを即刻公開中止にすべきだと考えている。「サークルクラッシュ同好会」という団体名からしてかなり危ういのだから、そういうことにはもっと気をつけてほしいものだ。会長の“鈍さ”を垣間見せるような事例の積み重ねが、着実に僕の中のサークラ同好会への失望の芽を育てていったのだ。

 

 僕の見たところ、サークラ同好会にはもうひとつ問題がある。それは性愛中心主義にかんするものだ*4サークラ同好会はその成立からして「性」を扱うサークルである。そこで行われる議論が性愛中心主義からスタートすることはある程度仕方のないことであると言える。しかし、それはあくまでも重心がサークルクラッシュ現象の研究にあった時代の話だ。現在、サークルクラッシュ現象は明らかに団体として取り組んでいる主要テーマではない。少なくとも例会では人間関係の問題全般・個々人の生きづらさについて考える活動のほうが多いように見える。というか、普段の活動で性愛中心主義に基づいた活動をしているところを見たことがない(参加者が結果的に性の話をすることはあるが、必ずしもそうならない十分な自由度が確保されている)。にもかかわらず、NFでの呼び込み・勧誘は「恋愛」をプッシュしたものであったし、会誌は「僕たちに恋人・友人ができない理由」(水上文人)、「喪失」(名称未定のユーレイさん)、「他の男とはセックスしてるクセに俺にはヤらせてくれない女が憎い」(ホリィ・セン)、「サークルクラッシャー診断アプリ」(桐生あんず)と性っぽいコンテンツが多い。中身もかなり危ないものがある。「“メソッド”としてのサークルクラッシュ同好会」(FJ-T)には以下のような記述がある。

誤解・偏見を恐れずに言えば「女の子は彼氏のことで拗らせ、男の子は彼女がいないことで拗らせている」のがサークルクラッシュ同好会なのである。

これは僕の短い在籍期間における実感からは解離している。紙面では「非モテ」という言葉が頻出するにもかかわらず、実際に非モテ言説のやっていきをやっていっているのは一部の会員だ。性愛中心主義の内部で悩んでいるわけではない会員もいる。僕も主に「自閉症」について言ったり書いたりして活動していた。彼ら*5サークラ同好会の「人間関係一般や個々の生きづらさについて考える」という側面に魅かれて入会したのだろう。実際、活動のある部分は彼らにとって有用なものとなり得るような内容だ。一方で、サークラ同好会の根底にあるイデオロギーは依然として性愛中心主義のままだ。それはサークラ同好会の表層しか見ていないからだ、と言われるかもしれないが、ここで最も重要なのは表層である。およそなにかがなにかに影響を与えるとき、最もよく働くのはその表層だ。比較的よく顔を出していた僕からでも、少なくともそのように見える、という点がたいせつなのだ。僕がいちばん恐れているのは、このイデオロギーが本来べつの苦しみを抱えている人間の直面する問題を上書きし、不要な性愛の苦しみを植え付けることになるのではないか、ということである。自閉症鬱病など、あるいは精神疾患でもないなにかべつの要因で生きづらさを抱えている人間に「自分はモテないから苦しいのだ」と思わせてしまいかねない。これはたいへん危険なことだ。

 

 というわけで、僕の中のサークラ同好会への期待はほとんど失われてしまった。僕はこの状態を「つまらない」と呼ぶことにしよう。なぜサークルクラッシュ同好会はかくもつまらなくなったのか。それは、拡大していくサークラ同好会の現状ともはや逃れられないポリティカル・コレクトネスへの責任を認識できない会員の“鈍さ”、性愛中心主義に基づくたんなるホモソーシャルの再生産から逸脱できない表層のコントロール不全が原因である。

 

 

 このあたりで記事を終えて、13日目の小林通天閣(@kobashowww)に繋ぐ。

*1:今回の話とは関係ないが、正義の告発氏がサークルクラッシュ同好会やその周辺の活動に参加するようになったので大阪・京都に極めて居づらい状況にある。

*2:現5ちゃんねる

*3:しかし、この区分を明記したとしてもまだ問題がある。

*4:こんなくだらないエクスキューズをするのは避けたかったのだが、ちょっと弁明しておこう。ツイッターで僕の様々な醜聞を目にした読者諸氏は、お前が性愛中心主義を批判できる立場なのかと言うかもしれない。しかし、某北大生らが吹聴しているようなスキャンダルはすべてデマであると、ここではっきり宣言しておこう。

*5:彼ら/彼女らという言い方で性別を指定したくないので、「男性」を含意せず「彼ら」で統一する。

弱者支援の二つのドグマ

 ※この記事はサークルクラッシュ同好会会誌『Circle Crash Lovers Association Vol.6』(2017年11月23日発行)に寄稿した「弱者支援の二つのドグマ 序説」を加筆修正したものである。12月12日時点ではほとんど会誌掲載そのままの状態でアップされているが、満足のいく内容ではないため、ある程度の分量になるまで更新していく。

最終更新:2017年12月29日

 

 発達障害、あるいはその他の「治療対象者」――そして精神医学的対象に限らないマイノリティ一般――が抱える問題を解決するための方法論は、一般に特性論(individual characteristics)、適合論(person environment fit)、構築論(constructionism)という三つのそれぞれ異なる指向を持つものに分類することができる*1。問題の原因が個人の特性にあるという前提に基づく対応を特性論的アプローチ、個人の特性と環境の不適合から問題が発生するという前提に基づく対応を適合論的アプローチ、個人の特性を問題視する周囲の認識がそもそも社会構築的なものでしかなく、それらは相対化可能であるという前提に基づく対応を構築論的アプローチという。それぞれについて見ていこう。

 

(1)特性論的アプローチ

 あなたが小学校あるいは中学校で或るクラスの担任をしていたとしよう。そこにはひとり非定型発達らしき児童がおり(Aと名付けておこう)、教師や他の生徒らと頻繁にトラブルを起こしている。例えば、Aは授業を受けることができず、授業中に教室中を歩き回らずにはいられないのだ(注意欠如多動性障害)。また、何度注意しても卑猥語や罵倒語を突然口にする(汚言症)。その他にもAは自閉症スペクトラムに起因する困難を多数抱えている。さて、あなたはこのクラスの問題を解決するために、どのような方法を選択するだろうか。多くの人がまず思いつくのは、おそらく特性論に基づく対応である。問題の原因はA自身の特性にあり、Aの特性を変えることによって問題行動を減らす。Aが立ち上がったり汚い言葉を吐いたりしたときには、然るべき指導もしくはトレーニングによってそれをやめさせる。問題解決を迫られたあなたはそう考えるかもしれない。しかし、障害特性を変えるのはそう簡単なことではないし、本人の意思に反して特性を変えることには相当の苦痛が伴う。ADHDの児童に対する「じっとしていること」の要請は、いかにして正当化されるのだろうか。

 

(2)適合論的アプローチ

 度重なる指導にもかかわらず、やはりAにかんするトラブルがなくなることはなかった。Aの特性を変えることは難しそうだ。であれば、環境を変えてみるのはどうだろうか。トラブルはAと周囲の環境が噛み合わなかったことによって起こっていたのかもしれない。これが適合論に基づく対応である。クラスを再編成する、席順を変える、担任を変える、いっそのことAだけをべつの学級に、もしくは特別支援学級に移動させる、等々。教室や人間関係だけではなく、授業システムを変えることも必要となるだろう。視覚優位の自閉症スペクトラム児にもわかりやすいように図を用いて指示をする、授業プリントをADHDの生徒にも読みやすいようなレイアウトで作成する、といった調子である。しかし、このような環境の調整には限界があり、適合論的アプローチは無制限に行えるものではない。

 

(3)構築論的アプローチ

 そもそも、あなたは「Aの行動のどこが問題なのだろう」と考えたかもしれない。授業中に立ち歩いたからといって他の生徒の学習をそこまで妨げるものでもないだろう。Aは他の児童が使う鉛筆の音に集中を削がれているかもしれない。なぜこの教室でAただひとりの動きだけが問題視されるのか。汚い言葉が出ることのどこが悪いのだろうか。少なくとも私はAの特性にまったく問題を感じない。もしAが少数派であることにトラブルの中心がAであることの根拠を求めるのだとすれば、それはマイノリティ一般の「矯正」を許すことになるだろう。道徳的実在論の立場から、どちらが多数派であるかにかかわらず定言命法的にAのほうを異端視すべきである、と主張することもできる。形而上学的議論は稿を改めて検討するが、私は道徳的実在論を拒否する、ということだけ述べておこう。

 もちろん、A自身がその特性によって卒業後に不利益を被ることも考えられる。未成年であるAの判断能力は充分ではない、ということには多くの人が同意するだろう(この充分性の基準もまた社会構造に依存した作為的なものであることに気をつけなければならない)。よって、判断能力が充分でない者にのみ干渉を認める「弱いパターナリズム」については少なくともその採用が妥当であるように思われる。注意深く見てみると、ここに悪しき循環が潜んでいることがわかる。非定型発達者は治療/支援の対象である、として非定型特性を社会から消し去ることで、発達のスペクトラム上でAの近傍に存在する者はいなくなる。非定型特性のジェノサイドが行われた定型社会において、この先出会うすべての発達障害支援者は「定型社会で生きていけるよう支援する」という方向を向いてAにはたらきかけるだろう。しかし、そもそもAが抱える困難のうちのある部分は、この社会が定型社会であることに依るものであった。つまり、パターナリズムによってパターナリズムが必要な状況が生み出されるのだ*2*3パターナリズムのためのパターナリズム、続く負のスパイラル。その収束点は、非定型特性の絶滅である。これは端的に優生思想ではないか。

 Aの特性を担任も同級生も問題視しなければ、彼はより平和に学校生活を過ごすことができたはずだ。であれば、このように視点を変えることができるのではないだろうか。トラブルの原因はAの特性を問題視することそれ自体にあり、担任と同級生の認識さえ変われば問題は解消される。こうした構築論的アプローチは受け入れがたいものかもしれない。しかし、我々は高校における黒髪強制問題というよい例を知っている。

 

 治療文化(therapeutic culture)とは、精神疾患発達障害を正常からはみ出た状態とし、治療(すべき)対象とするようなイデオロギーのこと。すなわち、構築論を棄却し、特性論に依拠する立場である。治療文化に抗する立場を反治療文化(anti-therapeutic-culture)と呼ぼう。ここで気をつけておかなければならないのは、反治療文化は反精神医学(anti-psychiatry)とは異なる運動である、ということだ。反治療文化は反“治療文化”であって“反治療”文化ではない。反治療文化はけっして医療行為それ自体を否定するものではなく、当人が望む限りにおいて「自分自身で選択した処置」を受けることにまったく干渉しない。反治療文化が批判するのは、選択肢の隠蔽および抑圧である。

 

 信念の耐久性を調べるためのもっともよい方法は、境界事例をいくつも代入することだ。極端な例や現実には起こりそうもない例などの境界事例を挙げると、必ずと言ってよいほど「問いのレベルの適切さ」や「程度問題」などの概念を持ち出して批判する者が出てくる。だが、そのようなアイマイな概念は、結局は面倒な問いを封殺したい怠慢な人間による作為的な設定でしかなく、信頼に足るものではない。我々はこれからいくらでも過激な思考実験を――それが論理的に可能である(そこで構成される文が有意味である)限りは――許すことにする。可能であるが現実にはありそうもない仮定を棄却するということは、「ありそうなこと」と「ありそうもないこと」を分ける境界線を誰かが引く、ということである。この線引きは線を引いた者の知識、その時代のパラダイム、偶然性、その他様々な要素が混入せざるを得ない。これらの深刻かつ致命的な作為性を完全に除去するためには、そもそもそのような境界線を引かないという道を選ぶしかないのだ。

 実験に移ろう。母体に投与すれば子供に発達障害の症状が現れなくなる治療薬が開発された、という未来を考える。出生前診断の技術は進歩し、自閉症スペクトラム児を確実に見つけることができるようになった、そんな時代のこと。あなたは間もなく母親あるいは父親になろうとしている。ここであなたにはふたつの事実が与えられている。生まれてくる子供は自閉症スペクトラムであること、そして、あなたが望むなら出生前治療薬を飲むことができるということ。ちなみに、薬は高価でまだ多くの人が手にできるような状況ではなく、政府主導の出生前ジェノサイドはまだ実現されていない。つまり、あなたは生まれてくる子供の発達を自由に操作することができる、というわけである。どうするだろうか。心を決めたのであれば、あなたの選択を紙に書いてみた後、この実験の「治療薬」を「中絶」に置き換え、あるいは「自閉症スペクトラム」と書かれた部分を「生物学的メス」や「ホモセクシュアル」など他の弱者属性に置き換え、様々な組み合わせで再度同じ実験について考えてみてほしい。

 

 

 さて、次の話題に移ろう。少し前、百万遍交差点で関西クィア映画祭なるイベントを宣伝する立て看板を見た私は、とてつもない絶望感に襲われた。そこに書かれていた謳い文句は、「タイヘン×ヘンタイ」、そして「セックス! セックス! セックス! 特集」というものであった。さらに恐ろしい事実を挙げておこう。関西クィア映画祭の公式サイトには「ことばの説明」なるページがある。そこでは「異性愛中心主義」、「トランスジェンダー」、「シスジェンダー」、「フェミニズム」といった語の解説がなされている。しかし、このページ内のどこを探しても、「エイセクシュアル」という文字列が見当たらないのだ。「ノンセクシュアル」もどこにもない。たしかに私はこの目ではっきりと「テーマは『性』」と書いてある看板を視認したはずなのだが、あれは見間違いだったのだろうか。

 これはけっして重箱の隅をつつくような細かいクレームではない。「クィア○○」を名乗るのであれば、無数にあるそれぞれ違ったセクシュアリティすべてを網羅しておくという非現実的な配慮までは求めないにしても、特定のセクシュアリティを完全に排除するような活動は御法度であろう(そもそもエイセクシュアルはホモセクシュアルヘテロセクシュアルバイセクシュアルと並ぶ一般的な分類だ)。「タイヘン×ヘンタイ」と「セックス! セックス! セックス! 特集」はどちらも明確なエイセクシュアル・ノンセクシュアル排除である。異性愛中心主義に抵抗するマイノリティ団体が性愛中心主義を前面に押し出しているという転倒は、いかにして正当化されるのか。

 

 エイセクシュアルはLGBTのような積極的迫害を受けているわけではなく、セクシュアリティに起因する苦痛の大きさを考慮するとなるべく多くのLGBTに呼びかけることのほうがエイセクシュアルへの配慮よりも優先される。この正当化は功利主義的にはうまくいきそうである。苦痛の大小が比較可能であるならば、なにか測定法が存在しなければならない。どのようなものを採用すればよいのだろうか。

 苦痛を脳の生物学的な反応の大きさによって計測するとしよう。その場合、脳の苦痛を感じる部位を――家畜に対してそうするように――器質的に破壊してしまえば、苦痛指数は低く評価される。であれば、少数者に外科手術を施し続ければ、社会構造を一切変革することなしにマイノリティに関するあらゆる困難が解消される! 我々は社会科学的諸問題の多くを一気に解消する画期的手法を発明した、というわけである。しかしそれでは納得してもらえまい。ありそうな批判は、外科手術によって実現される状態は人間本来の自然な状態とは見做せない、そんなものはルール違反である、というものである。だが、我々は現に飲酒や喫煙等で脳の状態を調整することによって苦痛を和らげるという行為を日常的に行っている。病院では麻酔を使用し、健康のためにサプリメントを摂取する。美容整形が深刻な道徳的問題を孕むと考えられるような時代は(少なくとも私の観測範囲では)すでに終わっている。我々の日常生活の延長線上に――スピリチュアルな抵抗感の壁一枚を隔てて――脳の外科手術という経済的な解決法が存在する。その上、この方法であれば(術後はもはや苦痛を感じなくなるので)本人にアイデンティティの喪失という負担をかけることなく問題が消し去られる。もっと慎重に、手術を出産直後に行ってしまえば、もはや本人が自己の特性を改変されたと気づくことはできない。その特性を起因とする苦痛に苦しむあらゆるマイノリティはジェノサイドされる。これもやはり優生学に行きつく。性質ごとの苦痛量の比較ではなく、苦痛を感じる人数の比較をすればよいのではないか。エイセクシュアルと性愛中心主義者であれば、後者のほうが圧倒的に多い。だから幸福の総量を上げるためにはときにエイセクシュアルを無視することも必要である。しかし、それはあらゆるマイノリティが闘ってきた敵そのものである。

 それはたんに自分自身と友人が生きていくための運動だ、と言うのならばよいだろう。だが、もしもその活動になんらかの大義があると思っているのならば、一度よく考えてみたほうがいい。

 

 

 整理しよう。我々は弱者支援における二つのドグマを確認した。ひとつは、ある「正常」という基準が存在して、支援対象者はそこから外れた人々だ、というもの。ここから、治療文化に見られるような善意のジェノサイドが発生する。もうひとつは、ある弱者を支援するために他の弱者が排除されることはやむを得ない、というもの。それはあらゆるマイノリティが闘ってきた社会構造の再生産でしかない。

 この二つのドグマを自覚することなしに行われる弱者支援がそう遠くない未来に悲劇的な結果を生むことは想像に難くない。(マイノリティ特性が消し去られた未来を悲劇と感じるような人間は、そのときにはもういない!)

 いささか雑なまとめになってしまったが、問題提起としては充分な内容が確保できたと思われる。読者諸氏によってさらに発展的な議論が行われることを期待して、ここで本稿を終えよう。

*1:これらの概念は岡田有司「発達障害生徒における学校不適応の理解と対応―特性論,適合論,構築論の視点から」(2015) から借用している。

*2:そもそも、定型社会において非定型発達者は必ず“不幸である”、という前提は正しいのだろうか。ダウン症についてはこの前提に沿わないデータが存在する。2016年に行われた12歳以上のダウン症者852人を対象とした厚生労働省のアンケートによると、「毎日幸せに思うことが多い」に「はい」あるいは「ほとんどそう」と答えた人は91.8%にのぼった。

*3:私には、自閉症スペクトラムADHDうつ病の診断がおりている。本稿が書かれた2017年時点で、私は京都大学の大学院で数学の研究をしている。つまり、少なくともいまのところは、それに適した環境で好きなことをして生きている、というわけだ。自閉症者は特定のものごとに強い関心を向けるという特徴を持つ。ADHD特有の衝動性によって突拍子もないアイデアが生まれ、新規性のある研究結果が得られることもある。うつ病の患者はうつ病的リアリズム(depressive realism)と呼ばれる傾向を持ち、できごとの間の因果関係や自分の能力を、うつ病でない人よりも正確に認識することができる。これらの障害特性は、私の人生によい結果をもたらしている。

『問題のある子』執筆者募集

 2018年1月21日(日)の第二回文学フリマ京都での頒布を目標に、青本舎からインターネット大倫理文学第2巻『問題のある子』を発行します。印刷まであまり期間はありませんが(本当に申し訳ない)、なにか載せたいという方はご連絡ください。小説、詩、短歌、イラスト、漫画、学術論文、批評、なんでもOKですが、ある程度のページ数を確保できるものであると嬉しいです。また、可能であればタイトルに合わせて「学校的なもの」「学級崩壊」などの要素を入れていただけるとありがたいです。既に知っている人、過去に同じ誌に参加した人、顔見知りなどを想定していますが、僕の知らない人で載せたいものがある場合はご相談ください。2018年にはインターネット大倫理文学第3巻の発行も予定しておりますので、決定稿が今年中に上がらなかった場合はそちらへの掲載となりますことをご了承ください。

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※表紙は仮のものなので変更するかもしれません