『青色本』読書会レジュメ①

※ページ数はちくま学芸文庫版に対応

 

p.7-8

 Wittgensteinは「語の意味とは何か」という問題に迫るために,まず「語の意味の説明とは何か」を検討すると宣言する.なぜこのような回りくどいことをするのだろうか.Wittgensteinが指摘するように,我々は「名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考え」に囚われがちである.例えば,「Aは存在する」という命題(Aは神や他者などの任意の形而上学的対象)を検討するとき,我々はついつい「存在する」という(ここではあまりにもアクロバティックに用いられている)語の意味がこの命題の中ですでに確定されていると考えるか,あるいは「存在する」という語の“本当の意味”がまだわかっていないからこの命題の真偽がわからないのだ,などと考えてしまう.「語の意味」の問題に接近するときにほとんど避けることのできないこれらの混乱を回避するため,Wittgensteinは「語の意味の説明」から間接的に(後にわかるが,じつは直接的に)「語の意味」らしきものを引き出す,という方針を採る.

 

p.8-11

 「語の意味の説明」は,大まかには言葉による定義(翻訳定義)と直示定義(指差し定義)のふたつに分けられるように見える.前者は辞書のようにある未知の表現を別の既知の表現に置き換えることによる説明であるが,直接こちらについて調べても所望の解答は得られなさそうだ.対して,あるものを指差し等で端的に「これ」と指し示すことで意味を与える直示定義のほうは,我々に「語の意味」にかんする知識を与えてくれそうだ.

 しかし,直示定義にはすぐに思い浮かぶ難点がふたつある.ひとつは,「数」「1」「でない」などを直示定義することは難しそうである,ということ.もうひとつは,直示定義は誤解されうる,ということだ.どういうことか.緑色の鉛筆を手に持って「これは鉛筆だ」と説明するときのことを考えてみよう.もし私が「鉛筆」という語をすでに知っているのでなければ,私はこの直示定義を見て,「鉛筆」という語を「緑色」「一本」「木でできている」「固い」「先が尖っている」のように使うかもしれない.

 Wittgensteinはもっとわかりやすい別の例も挙げている.「バンジョー」という語が何を指すのか,知らない人は多いだろう.私がある楽器――音を出す部分は金属と動物の皮,握り手は木で作られていて,そこに5本の弦が張られている――を両手にひとつずつ持って「これはバンジョーだ」と言うとする.その後,私はそれを聞いていたある男に「バンジョーを取ってきてくれ」と頼む.彼は別の弦楽器を持ってくるかもしれないし,もしかしたらふたつのバンジョーを持ってくるかもしれない.ここで注意しなければならないのは,「彼は『バンジョー』に『弦楽器』という解釈を与えた」と言うとき,彼が何かを持ってくる行為とは別に,それとは独立した「解釈する」という行為を想定すべきではない,ということだ.なぜか.それは次の例から類推することができる.

 

p.11-14

 ある人に「赤い花を取ってこい」と命じる.彼はどんな色の花を持ってくればいいのか理解し,「赤い花」を持ってくるだろう.なぜこのようなことができるのだろうか.命令を受けたとき,彼の頭の中に「赤いイメージ」が浮かび,そのイメージといくつかの花を比べ,一致する色のものを取ってくる.素朴にはそう考えられる.しかし,この心的な「赤いイメージ」が「赤い紙」に置き換えられたとしても問題はない.

 ここで彼は(命令を実行するに先立ち)「赤い」という語の「解釈」をしているのだろうか.たんなる記号としての「赤い」とは独立した“「赤い」という語の意味を理解するという心的過程”は,「赤いイメージ」を「赤い紙」に置き換えることで,それが(我々の素朴な言語観に反して)言語の働きにとって本質的ではないということが明らかとなる.

 

p.15-16

 Wittgensteinによると,数学における形式主義に対するFregeの考えは次のように表現できる:数学の命題がもしダッシュ記号の組み合わせ[1]に過ぎないのなら,それらは死んだもので何の興味もない,しかしそれは明らかに一種の生命を持っている.

 数学に限らず,どんな命題[2]でも同じことが言えるだろう.死んだ記号を生きた記号にするためには,たんなる記号とは違った,非物質的ななにかが必要となる.しかし,それが「記号の意味」ではないことは「赤い紙」の例からわかる.心的イメージは肉眼で見られる外的対象に置き換えられるからだ.では記号の生命とはなんなのだろうか.それは記号の使用(use)である.このことは,『青色本』で挙げられる豊富な例を見ることによって徐々に明らかとなっていく.

 

p.17-18

 思考にその独特な性格を与えるのは,「心的状態」のような神秘的なものであるように思える.我々がそう考えてしまいがちなのは,思考が「心」という媒体の中でしか起こらないからだろう.例えば,アメーバが同じような細胞に分裂し,その各々が成長してまた元の細胞と同じようにふるまうのを見たとき,我々はアメーバが奇妙な性質を持つのだと考える.その他にこのようなふるまいを見せる物理的機構を見たことがないため,「アメーバの機構は他とまったく違うものなのだろう」と推測するのである.「心」についての思い込みは,この状況と似ているように見える.

 しかし,この類比にはふたつの――「思考は一連の心的過程である」という,そして「思考は心という媒体の中で起こる」という――誤りが含まれている.「思考」が奇妙に見えるのは,その働きがまだ科学的に説明できないということによるのではない.

 

p.18-19

 心理学的研究によって心の働きを説明するモデルを構成したとする.物理学におけるエーテルの理論が物理学的現象を(因果的に)説明する[3]のと同じく,この心モデルも観察可能な精神活動を説明する(そしてそのためにはひどく複雑で込み入ったものでなければならない).このモデルが複雑であることを以て「心は奇妙な種類の媒体だ」と考えたとしても,それは自然科学の問題でしかない.

 我々の興味の対象は言語の働きと心的作用とのあいだの因果的なつながりではない,ということがわかった.であれば,心の働きはすでに我々の前にあけっぴろげになっているはずだ.我々が思考の本性についての困難がその媒体(すなわち心)の本性の困難さに起因するものだと勘違いしてしまう原因は,言語を神秘的に(アクロバティックに)使うことにある.例えば「時間」について考えるとき,そこになにかまだ見えない新事実があるのではないかという観念に囚われてしまいがちであるが,そんなものがあるわけではない.問題となり得る事実はすべて目の前であけっぴろげになっているにもかかわらず,「時間」という語の神秘的な使用が我々を惑わせるのだ.

 

[1] 黒崎訳では「たんに複雑に書かれたもの」と訳されている.

[2] 真か偽かが定まる文のこと.

[3] 物理学の発展によってエーテルによる物理現象の説明が“間違った”ものであったことがわかった,という事実にも注目しなければならない!

あとは任せたぜスイッチ

 小学四年生のとき、家の前で知らないおじさんから「あとは任せたぜスイッチ」をもらった。それは当時の僕の手のひらにちょうどよく収まる大きさの機械だった。「あとは任せたぜスイッチ」を押すと、君じゃない君に、すべてを任せることができる。あとは全部任せたくなったら、「あとは任せたぜスイッチ」を押すといい。ちょうど十分後に作動して、君を楽にしてくれる。おじさんは僕にそう教えると、緑色の煙になって、ポワンと消えてしまった。おじさんが消えたあと、好奇心に負けてすぐに「あとは任せたぜスイッチ」を押したが、なにも起きなかった。なあんだ、つまんないな、と思いながら、僕はそのきれいなつや消しブルーの機械を本棚に飾っておくことにした。

 つぎに「あとは任せたぜスイッチ」を押したのは中学三年生のときだった。公立高校の入学試験を二日後に控えた僕は、冗談半分ですっかり埃をかぶった「あとは任せたぜスイッチ」を押してみた。でもやっぱり、なにも起きなかった。僕は五年前と同じようにがっかりして、ウェットティッシュで「あとは任せたぜスイッチ」を清潔な状態にし、もとあった場所へと置いた。

 

 高校受験はあっけなく終わり、僕は家からいちばん近い第一志望の高校に入ることができた。僕は「あとは任せたぜスイッチ」のことなど忘れ、はじめてできた恋人(名前は“やわらかい長方形”という)と、そこそこしあわせな日々を送っていた。

 やわらかい長方形は僕よりも勉強ができた。かばんにはいつも難しい本を何冊か入れていたし、難しい言葉を使わないと会話をすることができないらしかった。やわらかい長方形の話すことはほとんどなにもわからなかったが、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。やわらかい長方形には少々情緒不安定なところがあった。僕はやわらかい長方形のことを深く深く愛していたので、そんなことは些細な問題だった。僕たちはうまくやっていた。うまくやっていた。うまくやっていた。

 

 高二の春、やわらかい長方形がよく僕を怒鳴りつけるようになった。やわらかい長方形が難しい言葉ばかり使って怒るので、正確にはよくわからないのだが、どうやら僕が他の女の子と浮気をしているのではないか、と疑っているらしい。もちろん、そんなことはしていない。していない。していない。

 高二の夏、本棚を整理しているとき、肘でうっかり「あとは任せたぜスイッチ」を押してしまった。なにも起きなかった。

 高二の冬、僕は本当に浮気をしてしまった。それは仕方のないことだった。断る方法を知らなかったのだ。弾力のある三角形はいい子だ。だから、弾力のある三角形を悲しませたくなかった。やわらかい長方形にはすぐにばれてしまった。僕は彼女の家に行き、「ごめんなさい」とちょうど千回言って、帰った。やわらかい長方形は泣いていた。もう、やわらかい長方形を泣かせるようなことをするのはやめよう、と思った。弾力のある三角形はそれ以来、僕と会話をしてくれなくなった。目も合わせてくれない。

 高三の春、僕とやわらかい長方形は、放課後の渡り廊下で大喧嘩をした。たまたま近くにいた友達が仲裁をしてくれて、その場はなんとか収まった。その友達は僕を慰めるためにブラックの缶コーヒーをくれた。コーヒーは嫌いだったが、とてもそんなことを言える状況ではなかった。彼は僕を慰めようとしてくれている。いろいろな言葉を、じっくりと考えて、僕にかけてくれる。僕はそのまずい液体を飲み干すのに必死で、なにも聞いていなかった。彼がいなくなると、すぐトイレに駆け込み、嘔吐した。それまでの人生でいちばんの罪悪感が僕を襲った。でも、仕方のないことじゃないか。仕方のないことじゃないか。仕方のないことじゃないか。

 高三の夏、眠ることができなくなったので、インターネットで調べた情報をもとに、薬局で睡眠導入剤を買った。小さな白い錠剤で、口に含むとほんのり甘い味がした。その薬を「天使」と呼ぶことにした。僕は一週間に五回、「天使」を四錠飲んだ。「天使」は少しのあいだ、僕を救済してくれた。

 高三の秋、精神科でよくわからない肩書きをもらった。僕はそのことを誰にも言わないことにした。「天使」はだんだんと効かなくなってきていた。それでも僕は処方された薬を飲まなかった。それらは「天使」のようには甘くなかったからだ。やわらかい長方形と会う時間も体力もどんどんなくなっていった。やわらかい長方形は、毎日十通はメールをするように、と僕に命じた。僕は毎日六通から八通のメールを送った。もちろん、少なすぎると怒られた。僕にはどうすることもできなかった。メール十通ぶんの文章を考えると、僕の貧弱な頭は確実にパンクしてしまうだろう。

 

 やわらかい長方形は、大学入試にすべて落ちてしまった。たぶん、僕のせいだ。僕がきちがいだから、やわらかい長方形は勉強に集中できなかったんだ。僕は滑り止めで受けた私立大学に入ることになった。「天使」はもう完全に効かなくなっていた。

 大学一年目の冬、やわらかい長方形は受話器の向こうでずっと叫んでいた。ずっと叫んでいた。ずっと叫んでいた。お前が悪いんだ、お前のせいで自分の人生は滅茶苦茶だ、そんなことを言っていたのだと思う。僕は頭が悪いから、難しい言葉ばかり使うやわらかい長方形の言うことがほとんどなにもわからなかった。でも、僕が悪いということだけは、はっきりとわかった。

  僕は「あとは任せたぜスイッチ」を押した。「あとは任せたぜスイッチ」を押すと、僕じゃない僕に、すべてを任せることができる。あとは全部任せたくなったから、「あとは任せたぜスイッチ」を押した。それはすごく自然なことだ。五秒、六秒、七秒、僕は右耳でやわらかい長方形の悲しい叫びを聞きながら、一秒一秒、ていねいに時間を数えた。

 

 四十秒、四十一秒…………一分………………

 

 

 

 

 

 

 五分………………

 

 

 

 八分三十秒…………八分四十秒…………九分……

 

 

 

 九分五十五秒。

 

 ――じゃあ、あとは任せたぜ。僕じゃない僕。君には、どうかここをうまく切り抜けて、しあわせに暮らしていってほしい! ああ、それともうひとつ。これだけは守ってくれ。やわらかい長方形には、絶対に、絶対に悲し

力学系メモ

 時間 {\displaystyle t} に依存しない函数 {\displaystyle f:\mathbb{R}^{n}⊃W→\mathbb{R}^{n}} を用いて微分方程式 {\displaystyle \frac{dx}{dt}=f(x)} で表される力学系を自励系という。 {\displaystyle x'=f(x,t)} で表される力学系を非自励系という。ここでは自励系について考える。

 {\displaystyle f( \bar{x} )=0} なる点 {\displaystyle \bar{x}} を平衡点という。微分方程式の解の一意性より、平衡点を通る解は定数函数のみである。
 微分写像ヤコビアンを同一視し、同じ記号で表す。 {\displaystyle x} における微分写像{\displaystyle df_x} と書くことにする。平衡点 {\displaystyle \bar{x}} における微分写像 {\displaystyle df_{\bar{x}}}固有値で平衡点を分類しよう。固有値の実部がすべてノンゼロであるとき、その平衡点は双曲型であるという。固有値の実部がすべてゼロ、すなわち固有値がすべて純虚数のとき、その平衡点は楕円型であるという。さらに、双曲型平衡点を次の3つに分類する。固有値の実部がすべて負のとき沈点、すべて正のとき湧点(源点)、正のものと負のものが混じっているとき鞍点という。
 沈点の近くの解は指数函数的に沈点に近づく。すなわち、{\displaystyle λ<0} をすべての固有値の実部より小さな定数とすると、 {\displaystyle \mathbb{R}^n} の任意のノルムに対してある正数 {\displaystyle M} が存在して、
{\displaystyle || φ_{t}(x)-\bar{x}||≦Me^{tλ}||x-\bar{x}|| }
が成り立つ。 {\displaystyle φ_{t}(x)}力学系の流れである。
 逆に、湧点の近くの解は指数函数的に湧点から遠ざかる。すなわち、{\displaystyle λ>0} をすべての固有値の実部より大きな定数とすると、 {\displaystyle \mathbb{R}^n} の任意のノルムに対してある正数 {\displaystyle M} が存在して、
{\displaystyle || φ_{t}(x)-\bar{x}||≧Me^{tλ}||x-\bar{x}||}
が成り立つ。

 次に、Lyapunovの意味での安定性を定義する。平衡点 {\displaystyle \bar{x}} が安定であるとは、任意の近傍 {\displaystyle N(\bar{x})⊂W} に対し、適当に {\displaystyle \tilde{N}(\bar{x})⊂N(\bar{x})} をとると、そこから出る任意の解 {\displaystyle x(t)}{\displaystyle t≧0} について定義され、{\displaystyle N(\bar{x})} 内に留まることをいう。図で表すと、下のようになる。
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 平衡点 {\displaystyle \bar{x}} が漸近安定であるとは、それが安定であって、{\displaystyle t→\infty }{\displaystyle x(t)→\bar{x}} となるように {\displaystyle \tilde{N}(\bar{x})} がとれることをいう。図で表すと、下のようになる。
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 平衡点 {\displaystyle \bar{x}} が安定であるとは、それが安定でないことを意味する。図で表すと、下のようになる。
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 図で{\displaystyle N(\bar{x})} とすべきところを {\displaystyle N(x)} と書いていることに注意。修正するのめんどくさい。

 明らかに沈点は漸近安定であり、湧点は不安定である。次の不安定性定理より、鞍点は不安定であることがわかる。
(不安定性定理){\displaystyle df_{\bar{x}}}固有値で実部が正のものがあれば不安定。
 従って、双曲型平衡点で安定かつ漸近安定でないものは存在しない。楕円型平衡点には安定かつ漸近安定でないものが存在する。例えば、2次正方行列 {\displaystyle A} で定まる力学系 {\displaystyle \frac{dx}{dt}=Ax} について、{\displaystyle A}固有値が純虚数であるとき原点は楕円型平衡点であり、原点まわりの解は下の図のように流れている。
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 沈点の近くの解に対し、差のノルム {\displaystyle ||x(t)-\bar{x}||} は減少函数として見ることができた。もっと一般的に、Lyapunov函数を構成することで平衡点の安定性を判定することができる。連続函数 {\displaystyle V:N(\bar{x})→\mathbb{R}}{\displaystyle N(\bar{x})\setminus \bar{x}}微分可能であるとする。 {\displaystyle V} が次のふたつを満たすとき、 {\displaystyle \bar{x}}Lyapunov函数という。
{\displaystyle (i)} {\displaystyle V(\bar{x})=0}{\displaystyle x \neq \bar{x}} に対し {\displaystyle V(x)>0}
{\displaystyle (ii)} {\displaystyle N(\bar{x})\setminus \bar{x}} 上で {\displaystyle dV_{x}(f(x))≦0}
 また、 {\displaystyle (ii)} の不等式がイコールを含まないとき、狭義Lyapunov函数という。
 例えば、3次元力学系 {\displaystyle (\frac{dx}{dt},\frac{dy}{dt},\frac{dz}{dt})=(2y(z-2),-x(z-1),xy)} の原点におけるLyapunov函数{\displaystyle V(x,y,z) = x^2 + 4y^2 + 2z^2} で与えられる。ちなみにこの平衡点は安定だが漸近安定ではない。
 Lyapunov函数が構成できれば、次のLyapunovの安定性定理によって平衡点の安定性が判定できる。
Lyapunovの安定性定理){\displaystyle \bar{x}}Lyapunov函数が存在すれば {\displaystyle \bar{x}} は安定。また、狭義Lyapunov函数が存在すれば漸近安定。

『グッバイグーグルアイ』執筆者募集

 2017年9月18日(月・祝)の第五回文学フリマ大阪での頒布を目標に、青本舎(せいほんしゃ)から文芸誌『グッバイグーグルアイ』を発行します。原稿を出したいという方は青本Twitterアカウント(@book_blue_book)までご連絡ください。また、青本舎編集部のメンバーも募集しています。現在(5月28日時点)で文章3、イラスト2、短歌2掲載予定。最終稿は7月中にお願いします。

 

 掲載の決定は完全に編集部の趣味に左右されます。ジャンルは以下のものを想定していますが、これ以外でも良いと思ったものは載せます。

・小説、詩、エッセイ

・漫画、イラスト

・学術論文

・評論

 

青本舎編集長

複素 数太郎(@Fukuso_Sutaro)

催眠商法(SF商法)潜入ルポ

 昨日12時50分、京■大学近くの某シェアハウスに到着。13時、メ■ーマー■潜入部隊が集合した。作戦は15分後、■都大学から歩いて数分のところに2ヵ月限定で店舗を構える「■リー■■ト」にて決行。ここで行われているのはいわゆる「催眠商法」「SF商法」で、要は来場者プレゼントなどの餌によっておびき寄せた老人・主婦らを心理学的な手法で洗脳し、購買意欲が異常に高まった段階で高価な商品を売りつける悪質な手口だ。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
 企業名をググってもあまり多くの情報はヒットしないが、2005年にヤフー知恵袋で被害が報告されているのを確認することができる。2ちゃんねるでもたまに言及されるらしい。労働環境が粗悪、脱税が発覚したなんて噂もある。当日0時過ぎにメリ■■■トツアーのことを知ったが、こんなに面白いオモチャもなかなかないのですぐに同行を決めた。

 受付で米1kgを受け取った。入場にはひとりにつき100円が必要となる。すべてが終わったあとにトイレットペーパー12ロールが支給され、さらに前日も参加していれば、メリ■■ー■を紹介した側とされた側がそれぞれティッシュを5箱ずつもらえる。1時間と少し座っていれば確実に1,000円分以上の物資と話のネタが手に入るのならまあ悪くない。
 特に問題なく入場できたが、100人ほどの老人で溢れかえる会場で20代前半の僕たちはとてつもなく浮いた。開始時間の10分以上前にはすでに席が埋まっていたため、最後列に予備の椅子を用意してもらい、着席した。iPhoneのボイスメモを起動してポケットに忍ばせる。内装を撮影しておきたかったが、誰にも気づかれず写真を撮ることはできそうになかった。ただ白いペンキで塗られただけの無機質な壁、古びたパイプ椅子、トイレットペーパーしか並べられていない前方の長机、店長の頭上に掲げられた不気味な笑顔のロゴマーク。見たところ相手方の勢力は3人で、よく喋るガリガリの店長(新婚)、ぽっちゃり体系アラレちゃん眼鏡の女性店員(さーちゃん22歳)、ぎこちない体育会系男性店員。こちらは8人いるので殴り合いになれば奥にあと数人いたとしても勝てるはずだ。

 予定よりも10分ほど早く店長の弾丸セールストークが始まった。

店長「はい、えー、それでは皆様お待たせいたしました! 改めまして、こんにちはー!」
老人「「「こんにちはー!!!」」」
店長「はい、えー、それではですね、まだお時間前ではございますけどもね、あの、ちょっとですね、人が多いんですごく暑いんですけども」
さーちゃん「そうですねー」
店長「あの、今日の朝、もっとすごかったんですよ!」
さーちゃん「はい」
店長「ねえ、あの、けっこうね、お客さんらですね、お昼空いてるからお昼行こうって方が多かったんですね」
さーちゃん「そうですね」
店長「でもですね、朝から少ないかなーと思ったらめちゃめちゃ多くて! 朝も多くてお昼も多くてですね、こんなに街に人がいるのかなと」
さーちゃん「うんー」
店長「噂らしいんですよ。なんかぞろぞろ人が歩いてるけど、祇園祭今日やったかなーって」

 当然だが、喋りはなかなかうまい。老人たちも数日前から複数回ここに来ているため、統率のとれた反応を返してくれる。コールアンドレスポンスもほぼ完璧だ。前日に同じ場面があったのだろう。まるで打ち合わせでもしたかのように声を揃え、老人たちは店長の望んだ通りの反応を引き出される。うまく合わずとも店長がそれを笑いに変え、失敗したところを何度か練習する。おそらくこの練習も後日生かされることになる。僕が店長のジャブにひるんでいると、間髪入れずに店長とさーちゃんのあっちむいてホイバトルが始まった。会場を左右で店長チームとさーちゃんチームに分け、勝った側が全員きしめん1袋をGETする*1。普通に楽しい。この時点でトーク開始から3分。もう引き込まれそうになっている。「こっそり録音している*2」という緊張がなければもうあちら側に取り込まれていたかもしれない。

店長「笑うと人間は免疫が上がります。みなさん、癌という病気、なりたいですかなりたくないですか? なりたくは?」
老人「「「ない!!!」」」
店長「なりたくは?」
老人「「「ない!!!」」」
店長「(さーちゃんを指差して)彼女はお金が?」
老人「「「ない!!!」」」
店長「そうなんですよー!」
老人「「「ワハハハハハハ!!!」」」

店長「残念ながら健康食品バリバリ食べてる人だけが元気で長生きできるんか言うたらそうでは」
老人「「「ない!!!」」」
店長「そうでは」
老人「「「ない!!!」」」
店長「私は骨と皮しか」
老人「「「ない!!!」」」
店長「いやいやいやいやいや!」
老人「「「ワハハハハハハ!!!」」」

 こんな感じのコールアンドレスポンスが頻繁に挿入され、ちゃんとやらないと体育会系男性店員が圧をかけてくる。彼は背が高いうえに笑顔が下手なので本当に怖い。黙ったまま店長の話を聞いていたら結構マジなトーンで「後ろ2人!」と怒られたし、老人にもたまにきつく当たることがある。さーちゃんより年上とのことだが、濱田マリっぽいハキハキとした喋りのさーちゃんと対照的に店長の話への相槌が絶望的に棒読みで、タイミングもガバガバだ。この仕事をこの先も続けるのなら早く改善したほうがいい。

 店長が健康にかんする話について全然エビデンスを出さないことは少し気になっていたが、序盤はトークのスピードにまんまと誤魔化されていた。疑問を持つ隙も与えてくれない。立ち止まって考えていると店長は先へ先へと話題を変えていってしまう。この話は本当に商品と関係があるのだろうか。だが、20分くらい経った頃に店長がとんでもないことを言い出したもんで、僕はようやく正しく状況を認識することができるところまで回復した。

店長「実はですね、そういう放射能が漏れてですね、魚にですね、大きな影響を与えている魚が、あるんですよ。そしてですね、そういうものを食べるからですね、今ですね、若者たちに、病気がすごく多いんですよ。で、それが何か言うたらみなさん、奇形児とか異常児*3って言われてるんですけども、ねえ、あの、異常児の子供が非常に多い! もっと言うとですね、あの、異常児じゃなくてもね、アトピー、アレルギーがなんで多いのかって調べてみたときに、親が食べるものが悪過ぎるんですよ! わかります? だからですね、今はですね、あの、こういうふうに指が一本少ない子供を少指症*4って言います」
さーちゃん「少指症!(かわいい)」
店長「指が一本少ないんですよね、四本しか無いんですよ。逆にですね、指が一本多い子供を多指症って言うんですよ」
さーちゃん「多指症!(かわいい)」
店長「そしてね、可哀想なのがこの前ですね、海外のほうになるんですけれども、赤ちゃん生まれたら鼻が無かった子供が生まれたんです。鼻が無かった」
さーちゃん&老人「「「へー!!!」」」
店長「それがですね、あの、なんや言うたら、無い鼻と書いて、無鼻症と呼ばれます!」
男性店員「無鼻症!(棒読み)」
店長「無鼻症! そしてですね、目が一個しかない子供を、単眼症と言います!」
さーちゃん「単眼症!(かわいい)」
店長「で、単眼症の子供は可哀想にね、目が無いときに、右とか左だけ無いんじゃないんですよ。で、どうなるんですか言うたら目が必ず真ん中に寄るんですね」
老人「「「へー!!!」」」
店長「単眼症って。で、あの、そういう子供が生まれてます。じゃあなんでそういう子供がいま多くなったのか言うたら一番調べてみたら、やっぱり食べ物が悪くなってるんです!」

 店長、お前……よりにもよって理学研究科を置く北部のすぐ近くでやりやがったな……! 僕の頭の中ではなぜか機動戦士ガンダムUCのBGMが流れていた。
 ここで店長は韓国海苔12パックセットの紹介をしたかったようだが、放射能の話は全く必要なかった。「奇形児」「異常児」などの衝撃的なワードで無駄に老人の不安を煽り、なんかよくわからんがとりあえず海苔を買えば安心だというふうにミスリードしたように見えた。

 その後も店長は会場内の学生の目も気にせず根拠の不明瞭な話を続け、さーちゃんはキュートで、体育会系男性店員は棒読みだった。男性店員の発する圧で1時間の洗脳トークは異常に長く感じられた。今日販売された商品はほぼ常識的な価格設定だったが、2ヵ月かけてこの老人たちは徐々に高い商品を買わされるようになっていくことだろう。なんと今だけ12,900円分の青汁を購入するだけで会員登録できるだなんて謳っていたが、もはや誰もおかしいと感じていない様子だった。
 14時半ごろにようやく店長のトークと商品の販売が終了し、僕たちはトイレットペーパーとティッシュを受け取った。人数が人数だけに、なかなかの収穫だ。

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 帰り際に潜入部隊のメンバー数人が店長と少し会話した。店長は傍目から見ると来場者プレゼント乞食の僕たちにも優しく対応してくれた。根はいい人なのかもしれない。店長、あんたとはもっと別の出会い方をしたかったよ。そしたら、友達になれたかもしれないな。

 ――ある程度の覚悟はしていたが、やはり催眠商法は恐ろしい。年老いた自分がもしひとりだけでこういった場に足を運んでしまったら、正直なところ催眠商法に絶対引っ掛からないとは言えない。今回潜入した8人は、心理学とか社会学とか、何かしらそういう武器を持って臨んでいる。それでも何人かは「引き込まれそうになった」と感じた。彼らの手口は相当洗練されている。僕の無防備な家族があの場にひとりでいたらどうなっていただろう。そう考えると、メ■ーマ■■をただネタ的・アトラクション的に消費しているだけではいけないのではないだろうか。この店長よりも強引な、もしくは■リー■■トよりも強引な手を使う者もいるはずだ。自分、そして家族の身を悪徳商法から守るため、僕たちはどうすれば良いのか。彼らの手口をもっとよく知っておく必要がありそうだ。

*1:さーちゃんが勝利した。

*2:https://www.youtube.com/watch?v=kbsr2qRxPMM

*3:放射線医学県民健康管理センターの調査結果(http://fukushima-mimamori.jp/outline/report/media/report_h26.pdf)によって否定されていることは調べればすぐにわかる。

*4:欠指症のことか?

ブルーベリーの木

 とある村に、欠伸をする村人の開けた大口にブルーベリーをねじ込む男がいた。そのねじ込みがあまりに敏速であったため、誰も己の口内にブルーベリーが入るのを防ぐことができなかったという。最初の数年は、食糧不足もあったため、皆これを歓迎した。

 やがて農業が発達し、有無を言わさずブルーベリーをねじ込む彼は悪魔と呼ばれるようになった。村の人々から忌み嫌われる存在となったのだ。記録に残っている間、彼は一日も休むことなく、欠伸をする村人を探しては瞬く間に口の中へとブルーベリーをねじ込んだ。

 しかしある日、ブルーベリーねじ込みおじさんは村の権力者たちの卑怯な策略によって、五十数年の生涯に幕を閉じた。ブルーベリーねじ込みおじさんの死を悲しむ者は誰一人いなかった。遺体は極めて粗雑に扱われ、そのままの姿で埋められた。

 翌年、彼の消えた村には一本のブルーベリーの木が伸びていた。それの地面に根を張る様は村のどんな屈強な男も見惚れるほど力強く、まるでブルーベリーねじ込みおじさんの広大無辺の愛と勇気を称えているようであった。

この文は偽である―命題に含まれる指差し語の問題―

(2016年4月2日 Y氏、L氏の指摘を受けて大幅に加筆修正)

 

 自己言及のパラドックスを引き起こす文の例として「この文は偽である」というものがよく挙げられる。「この文は偽である」が偽であると仮定すれば、「この文は真である」ことになり、仮定に反する。「この文は偽である」が真であると仮定すれば、「この文は偽である」ことになり、仮定に反する。したがってこの文はどうやっても矛盾を引き起こしてしまう、と言うのだ。よろしい。この(自己言及のパラドックスに関する)議論自体にまったく異論はない。しかしどうだろう、自己言及文の例として「この文は偽である」は適当だろうか。

 まず私の疑問、素朴な命題概念においては「この」の原理的な制限によって「この文は偽である」という文が「X: "X is false"」形式の自己言及文となり得ないのではないか、を検討してみよう。ゆえに本記事は「X: "X is false"」形式の自己言及文(つまりウソツキ文)が矛盾を引き起こすことの回避を目的としているわけではない。

  問題は「この」という語の使用法にある。通常、我々が「この」と言うときには、指差し、矢印、目線、文脈などを用いてなんらかの対象を指し示している。紙に書かれた文を指差しながら「この文は」と言う、紙に書かれた「この文は」からペンで矢印を別の文へとのばす、紙に書かれた文をちらりと見ながら「この文は」と言う、「『(文A)』、この文は」と続ける、等々。これらの動作をすべてあつめ、できた集合の元を単に「指差し動作」と呼ぶことにしよう*1。「この+指差し動作」ではじめて「この」はなんらかの対象を指し示すことができるのである。その通常の使用法に指差し動作が含まれるような語を以後「指差し語」と呼ぶ。

 さて、「この文は偽である」に含まれる指差し語「この」に、実際に対象を指差してもらおう。指差し動作は簡単に矢印で表す。

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 「この文は偽である」という文が指差し動作の対象になっている。これでいいじゃないか、なんの問題もないだろう、と思ったそこのあなた。この図をよく見てほしい。指されている対象はあくまでも「『この文』は偽である」であって「『(この+指差し動作)文』は偽である」ではない。指差し動作(ここでは矢印)がどうしてもはみ出てしまうのだ。つまり指差し動作の対象に含まれる「この文」は、指差し動作を含んだ指差し語ではなく、単なる「この文」という名詞なのだ。「この文」とはなんだろうか。まるで宙を眺めながら「これを見よ」と語りかけているようである。指差し動作を含まない「この文」はただ虚空を指しているのである。

 困った。これでは自己言及ができていないあまりか、言及対象が消えてしまっている。そこで、「この文」に「対応する指差し動作」と「この文は偽である」の両方を指差させてみよう。

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 これで「この文」の指差す対象は意味のある文になった。解決解決。なんだ、ちゃんと自己言及のパラドックスになっている。いや、果たしてそうだろうか。

 「この文」が指差す対象はなお「自己」ではない。実際、図では先ほどはみ出ていた矢印は指差し対象に取り込めたものの、新たな矢印がはみ出てしまっている。まあそんなことはどうでもいいのだ。矢印を増やしたことで、さらに深刻な問題が発生している。そもそも、指差し対象が常にひとつでなければならないことは直観的に明らかである。もしひとつの指差し語に指差し対象が複数対応していれば、我々はその対象ごとにそれぞれ真偽を考えなくてはならない。そのような文は命題として機能しない。よって、ふたつの矢印のうちどちらかは消去されねばならない。一方の矢印を消去すれば、結局は最初に提示した図とまったく同じ構造となってしまう。指差し語は自己言及文になることも、矛盾をつくりだすこともできないのだろうか。

 

①L氏との議論から見えてきた解決法

 TwitterのフォロワーであるL氏との議論から、私の言う「この」、つまり "This" の使用が論理学的使用と一致していないのではないかという仮説が出てきた。

 上記の指差し語的使用(日常的使用)を "Our-This" と呼び、論理学的使用を "S1-This" と呼ぶことにしよう*2。S1-This には "This sentence is false" を X: "X is false" に変換する作用があり、多くの論理学者は自然にその作用を受け入れ、"This" の使用のひとつに含まれるものと考えている。すると、私が神経質にこれらふたつの "This" を分けて(S1-This を除外して)いることに問題があり、指差し語は完全にスルーしてもよい議論だったということになる。

 しかし、現に私は自然に Our-This を採用していた。はじめから誰かが S1-This を提示してくれていれば、私や(存在するかわからないが)私と同じような疑問を持った者と論理学者たちの間の理解に齟齬が生じることもなかったのである。もし "This sentence is false" の多くの発話者が自然に This を論理学的に使用するのだとすれば、各々がふたつの使用の違いを自覚し、論理学的使用の合意が為されるべきではないか、と私は思う。

 

②Y氏との議論から見えてきた解決法

 ひとつ目の解決法は私の This の使いかたを修正するというものであったが、ふたつ目の解決法は私の(もしかすると他の多くの数学者の)命題概念を修正するというものである*3

 "This sentence is false" のようなものも含め、発話可能な文を単に「文」と呼ぶ。文の中には見かけ上は命題と呼びうるもの(前-命題)が存在するが、それは命題ではない。命題は一般に文と文脈からつくられる、と考えてみよう。どれほど頑固な指差し語的使用主義者でも "This sentence is false" の言わんとしていることは十分に理解できる。なぜだろうか。それは我々が、文に付随する文脈を認識しているからである。指差し語が何を指差そうとしているかは「ウソツキ文の話をしている」「直近で他に真偽を問えるような文は出現していない」等々の文脈によって理解される。このように、文に必要なだけの文脈が与えられる*4と「指差し情報付き文」が生成される。指差し情報付き文の中に「真偽を問うことのできるもの」が存在するが、これを命題と呼ぶことにする。

 指差し語問題は前-命題と命題の混同、つまり指差し情報付き文が発話可能な(オブジェクトレベルの)指差し動作を含む文であると考えたことにより発生したが、実は本当に "This sentence is false" が言わんとしていることはメタレベルの発話によって伝達されていたのだ、ということである。つまり、指差し情報無しの文は命題ではなく、命題は発話できない。

 このように命題概念を修正すれば、指差し語問題はもはや命題に関する問題ではなくなり、無視してもよくなる。

 

 ここらへんの哲学的議論はまったく把握していないので、誰か似たようなことを問題にしていたら教えてほしい。

*1:後述の「指差し情報」とは別の概念である。

*2:L氏との議論でウソツキ文をS1と置いたため。

*3:L氏も似た指摘をしていた気がするのだが、私の中でうまく考えがまとめられていなかったので聞き逃してしまったかもしれない。

*4:文脈が必要になるのは、命題の真偽を問う段階ではなく、文から指差し情報付き文を生成する段階である。